古本屋に行く
久しぶりに古本屋を探訪しようと思い、初めての店を2軒ほどクルマで回った。
買ってきた冊数を数えてみたら16点もあったのには、われながら驚いた。安い値段の物ばかりだから、つい気軽に購入してしまった。古い雑誌が3分の1を占めていたこともある。
前回、古本屋を巡ったのは2か月前だが、やはり似たような経緯であった。
買ってきた古本がその後どうなったかというと、だいたいが、ぱらぱら覗いてから棚に据え置かれることになる。真剣に読みに入るのは3冊に1冊くらいのもので、なかにはぱらぱら覗いてみることさえしない本もある。
古本屋で本を選んでいる時点では、購入するに足る理由がそれなり自分自身にあったわけだから不思議なことだ。考えてみるに結局、これは”自分自身(の読書の機能)に関する見積もりの甘さ”ということになる。
総じて、自分の読む本を、1本屋で買った本、2 古本屋で買った本、3 図書館で借りてきた本の3種類に分けてみると、一番時間を費やしているのは図書館で借りた本であり、次が本屋で買った本のような気がする。
図書館で借りてきた本(5~10冊)は返還の期限があるから、これを気にしながら、なんとか読み終えたいという意識になる。古本屋から、(甘すぎる見積もりのうえ)読みもしない本を買ってくるのは無駄であり、無意味であるといえるだろう。
なぜか汚せない本
しかし、読まなくても大事にしている古本というのは私にも存在する。吉川弘文館の國史大系・續日本紀・前後編という本は布張りのがちっとした本だが漢文ばかりで読みづらい。読み通そうという気にはならない。
けれど、續日本紀の記録は文武~聖武~桓武の時代の記録であり、やはり日本の歴史のなかで重要な部分を担っている。他の本でときどき續日本紀が引用されたりするので、そういう時は、この古本をひろげて、該当の箇所の実際を確認しにかかる。そして、確認し終わったあとで、「ふ-む」としばらく考える。
この本はワゴンセール同然の扱いをうけて、前後編2冊でなんと400円であった。週刊誌1冊分の値段だ。週刊誌なら読んだあとはポイ捨てだが、この本はとても大事にしている。私は1冊数千円の新書でもラインマーカーで好きなだけ線を引くが、この本にはそういうことはできない。
活字印刷の本
印刷の違いという点もある。
日本では1970年代半ばまでの古本は活字印刷だが、それ以降はオフセット印刷に急速に切り替わった。確かめたわけではないが、現在の本屋にならぶ新刊本で活字印刷の本はもはや存在していないだろう。
今回買ってきた16冊の中には岩波書店の哲学叢書のモノがあったが奥付をみると、第1刷が1975年で第22刷が1997年となっていた。この現物はオフセット印刷であるけれど、最初は活字印刷で作られたのかもしれない。吉川弘文館の國史大系も平凡社の東洋文庫シリーズも、近年発売されているものはみなオフセット印刷(平板印刷)だ。奥付を見ずとも、つるっとした手触りでわかる。
当たり前だが活字印刷とオフセット印刷では中の情報に違いはない。見ため、外観にも全く違いはない。しかし、指の腹でそっとなでると違いがわかる場合がある。紙質にもよるが活字印刷の場合、微妙な凹凸を感じる。
先の續日本紀は1974年の印刷だが凹凸感しまくりである。
昔の活字印刷といえば、植字という手工業的プロセスが思い浮かぶ。何人もの職人が一つひとつ鉛の活字を集め組み立てる、という丹念な過程を経て出版が成立する、そんな時代がおよそ100年間あった。
その時代では、”活字になる”ということは一定の社会性を獲得するということを意味し、文章をおこす側もそれなりの自意識と気合を込めて書いていたのではないだろうか。
活字印刷のページを指で感じながらそんなことを思う。