2013年12月31日火曜日

「中国化する日本」という言説について(その1)

刺激的な主張
「中国化する日本-日中文明の衝突千年史」は2,3年前に出版され大きな注目を浴びた本だ。著者は與那覇 潤氏。 タイトルも刺激的だが内容はもっと大胆で、ときどき挑発的だとさえ感じられる。
(日本の)社会の体質、風潮を「中国化」と「江戸時代化」とに分けて、評価することが特徴だ。この「中国化」の範型がはるか昔の宋朝にあるという主張からもわかるように、かなり大雑把だ。
世襲制度が大幅に後退した宋時代の中国を”近代”の始まりという説は、與那覇 氏のオリジナルではないらしい。一瞬それもありかなと思うがなんとなく悩ましい。
最近の歴史学者は専門分野の細分化が進み、全体を総合しようとすることが避けられているのかもしれない。さらに「”大きな物語”は消滅した」とされていたりして、長期的なパラダイムを描こうとすると思弁的に過ぎて、感覚としては不確かなものになっていくようだ。

その中で、與那覇 氏の言説はスケール感を感じさせるのみならず最近の数十年間の日本社会の変化をつかみ出そうという意識が明確で現実感がある。

問題ありと感じる理由
いろいろな点で示唆に富むとはいえ、しかし、以下に指摘する、どうしても同意できない点を感じる。
それもあって、結論からいえば、宋時代の中国を”近代”の始まりという主張も「近代化」=「中国化」という主張も違うのではないかと思う。

ひとつの問題は「近代」とはなにかということであり、定義が違えば、そもそも議論がかみ合わない道理だ。
自分としては、科学的発見や技術の進歩を基礎とし、これによってもたらされた国際関係の変化、産業構造の変化、さらに政治体制や社会的価値観の革新として現出したものが「近代」であり、その逆ではないと考える。
政治体制や社会的価値観(例えば、議会制民主主義や基本的人権の絶対視)が科学的発見をもたらしたわけでもないし、産業技術の進歩を招来したとも思えない。
「中国化する日本」には科学的発見や技術の進歩に関する考察がほとんど見られない。

ところで、どうしても同意できない点というのは何かといえば、日本の江戸時代(前近代)と同時期の中国や朝鮮の(日本と比較しての)後進性を與那覇 氏は無視していることである。
後進性の第一は度が過ぎた女性蔑視であり、第二は低い識字率である。
 
女の社会的存在が無視されていた朝鮮の状況に関してはこのブログの以前の記事でもいくつか言及しているが「どこが”近代”なのか」と言いたい気持ちだ。

2013年11月1日金曜日

キムチは日本と半島との間でのやり取りの中で生まれてきた食品

ユネスコ無形文化遺産保護条約政府間委員会の補助機関による勧告が発表され「和食;日本人の伝統的な食文化」や韓国のキムチが推薦をうけた。
韓国側の報道ではたとえば次のような記述をみた。

ユネスコはキムチが韓国に数百年間伝わる食べ物というだけでなく、韓民族のアイデンティティを形成してきた重要な文化的資産だということに注目した。
中央日報 2013年10月24日


キムチの語彙の違い
キムチの語彙が日本と韓国では異なるようだ。日本語の中では”漬物”というジャンルの一部として”キムチ”という韓国式漬物のジャンルがあり、唐辛子の入っていないものはキムチといわないが、現在の韓国では漬物全体をキムチという。
野菜の塩水漬け、すなわち漬物は韓国の新聞が言うように数百年前、あるいはそれ以前からあるだろうが、日本語でいう、(辛い漬物)キムチも「キムチ」という言葉も、かなり”若い”文化であることを知っているだろうか?
農文協 刊「世界の食文化_韓国」(朝倉敏夫)によれば
典型的なキムチ、赤い色がつくほど唐辛子たっぷりの白菜の漬物、この食品が半島で広く食べられるようになったのはここ数十年の歴史とのこと

「キムチ」の語源と日本の史料
じつは、この辛い漬物と「キムチ」という言葉は日本と半島との間のやりとりの中で生まれたと考えるべき理由がある。
 以前、日韓交流サイトで韓国側から「キムチは日本発祥の食べ物でしょうか?」と質問されたことがった。そのときはなぜこのようなことを日本人に聞くのだろうかと疑問に思ったものだった
後で、キムチの起源について韓国人に確信がないこと。そしてそれには理由があることを知った。朝鮮では昔から漬物を「沈菜」”チムチェ”と言っていた。このチムチェがいつのころか”キムチ”に変わったのだ。
そしてこの理由もいきさつも韓国人は知らないのだ。

結論から言うとこれには日本人と日本語が介在している。江戸時代、日本において朝鮮と交流していた対馬藩が通信使などに対してもてなし用の朝鮮料理を出すことがあり、レシピが残っているが、「チムチェ」を「きみすい」と記録していた。
「野菜が水に沈んだ状態にあるため、朝鮮では漬物のことを「沈菜」”チムチェ”といい、(釜山にあった対馬藩の役館)倭館の人はなまってこれを「きみすい」と呼ぶ、今にいう『キムチ』の語源である。」
ゆまに書房 田代和生「新倭館」

注目すべき記録である。
ここでいくつかの疑問がのこる。まず①なぜ対馬藩は「きみすい」と記録したのか?②なぜ半島人は「チムチェ」という言葉を使い続けなかったのか? などの疑問である。 ①に関しては日本人の聞き間違い、日本語ナマリというのが通説のようだ。 私は別の可能性もあると思っている。
日本にはうなぎの内臓を調理した「肝吸い」という食品があるが、朝鮮人のチムチェの食し方が日本人の目には吸い物を啜るのに似て見えたのではないか、という可能性である。チムチェは要するに野菜の塩水漬けだが、日本の漬物が漬け汁を絞ってから、盛り付けるのに対して、朝鮮のチムチェは漬け汁ごと食膳に提供され、朝鮮の両班は日本人が汁物、吸い物を啜るのと同様に、漬け汁を啜っていたのだ。

半島人はなぜ名前を変えたのか次の疑問、なぜ半島人は「チムチェ」という言葉を変えたのか、という点。
私の考えを述べる。
対馬班が朝鮮料理のつもりで提供した”きみすい”には大量にではなかったが、唐辛子が入っていた。その頃のチムチェにも量は少なかったが唐辛子が入っていたはずである。 秀吉の頃半島に渡った唐辛子は日本語では”南蛮”だが朝鮮側では「倭芥子」”日本のからし”と呼んでいた。

唐辛子はだんだんに半島人が愛用する食べ物になっていったが、日本側が朝鮮料理のつもりで提供した「キミスイ」という漬物を、唐辛子が入っているがゆえに、朝鮮人は「チムチェ」とは別の日本の食品と誤解したのではないだろうか?

このような誤解は、例えば近年、日本の料理である焼肉を、一時期日本人自身が韓国の料理と誤解したことなどを参考すれば理解できる。 
日本側の“きみすい”という言葉を半島人が使用しだしてその韓国なまりが“キムチ”となった、と考えると「チムチェ」が「キムチ」になった理由がうまく説明できる。

唐辛子を大量に使いだした時期、そして半島人が「チムチェ」という言葉を使わなくなった時期はいつごろだろうか。 おそらく19世紀の末か20世紀の初めごろではなかろうか。

いずれにもせよ、キムチは日本と半島との間でのやり取りの中で生まれてきた食品である、とはいえるであろう。

2013年9月14日土曜日

ハングル専用 の国から変身するのだろうか


「ハングル専用」の国という看板に偽りがある

韓国はなんと言っても「文字民族主義」の国で訓民正音を神聖不可分とする国だ。
いわゆるハングル専用の国だ。
しかし、真実はそうではない。法律部門や医学など専門用語を多用する各分野では実際には漢字を使って仕事をしている。
漢字なしでは回らない国が現実の韓国という国だ。
韓国人はその程度のことは見逃せというかもしれないが・・・・・。

じつは新聞でもちょくちょく見出しに漢字が登場する。
見出しは短い文字数で表さなければならないため、文章の前後を読んで・・とはいかないからだ。
たとえば「一」と「日」は同じハングルだったりするから見出しには何気なく漢字で「日」と出たりする。

「ハングル専用」の国という看板に偽りがある。

現実の韓国と仮想的な別の韓国
そこで現実の韓国という国から漢字をすべて抜き去った仮想的なもうひとつの韓国というものを想像してみよう。

まず、歴史史料は漢字で書かれているから過去の歴史の大部分が消える。つまり歴史のない国ということになる。
多数の専門用語を英語などで置き換えれば漢字は使わないですむだろう。日本をJapanに、また 「日」としていた見出しを「Jp」とかにすればよい。

しかし、それでもうまくいかないかもしれない。
なぜなら韓国語の多くは本来は漢字語なのに、本体の漢字を書かないで発オン記号で代替するという、限界がまだ残るからだ。
するとこの「韓国」のさらに多くの言葉を英語におきかえる必要がでてくる。
 将来の韓国はそのような国になっているかもしれない。
英語の単語が主でハングルの言葉が従となる、短い歴史しかもたない国に

韓国人自身はそのような想像をしたことはないのだろうか、
とふと思う。

2013年8月24日土曜日

読みもしない本を買った

古本屋に行く

 
久しぶりに古本屋を探訪しようと思い、初めての店を2軒ほどクルマで回った。

買ってきた冊数を数えてみたら16点もあったのには、われながら驚いた。安い値段の物ばかりだから、つい気軽に購入してしまった。古い雑誌が3分の1を占めていたこともある。

前回、古本屋を巡ったのは2か月前だが、やはり似たような経緯であった。

買ってきた古本がその後どうなったかというと、だいたいが、ぱらぱら覗いてから棚に据え置かれることになる。真剣に読みに入るのは3冊に1冊くらいのもので、なかにはぱらぱら覗いてみることさえしない本もある。

古本屋で本を選んでいる時点では、購入するに足る理由がそれなり自分自身にあったわけだから不思議なことだ。考えてみるに結局、これは自分自身(の読書の機能)に関する見積もりの甘さということになる。

総じて、自分の読む本を、1本屋で買った本、2 古本屋で買った本、3 図書館で借りてきた本の3種類に分けてみると、一番時間を費やしているのは図書館で借りた本であり、次が本屋で買った本のような気がする。

図書館で借りてきた本(5~10冊)は返還の期限があるから、これを気にしながら、なんとか読み終えたいという意識になる。古本屋から、(甘すぎる見積もりのうえ)読みもしない本を買ってくるのは無駄であり、無意味であるといえるだろう。

なぜか汚せない本

しかし、読まなくても大事にしている古本というのは私にも存在する。吉川弘文館の國史大系・續日本紀・前後編という本は布張りのがちっとした本だが漢文ばかりで読みづらい。読み通そうという気にはならない。

けれど、續日本紀の記録は文武~聖武~桓武の時代の記録であり、やはり日本の歴史のなかで重要な部分を担っている。他の本でときどき續日本紀が引用されたりするので、そういう時は、この古本をひろげて、該当の箇所の実際を確認しにかかる。そして、確認し終わったあとで、「ふ-む」としばらく考える。

この本はワゴンセール同然の扱いをうけて、前後編2冊でなんと400円であった。週刊誌1冊分の値段だ。週刊誌なら読んだあとはポイ捨てだが、この本はとても大事にしている。私は1冊数千円の新書でもラインマーカーで好きなだけ線を引くが、この本にはそういうことはできない。

活字印刷の本

印刷の違いという点もある。

日本では1970年代半ばまでの古本は活字印刷だが、それ以降はオフセット印刷に急速に切り替わった。確かめたわけではないが、現在の本屋にならぶ新刊本で活字印刷の本はもはや存在していないだろう。

今回買ってきた16冊の中には岩波書店の哲学叢書のモノがあったが奥付をみると、第1刷が1975年で第22刷が1997年となっていた。この現物はオフセット印刷であるけれど、最初は活字印刷で作られたのかもしれない。吉川弘文館の國史大系も平凡社の東洋文庫シリーズも、近年発売されているものはみなオフセット印刷(平板印刷)だ。奥付を見ずとも、つるっとした手触りでわかる。

当たり前だが活字印刷とオフセット印刷では中の情報に違いはない。見ため、外観にも全く違いはない。しかし、指の腹でそっとなでると違いがわかる場合がある。紙質にもよるが活字印刷の場合、微妙な凹凸を感じる。

先の續日本紀は1974年の印刷だが凹凸感しまくりである。

昔の活字印刷といえば、植字という手工業的プロセスが思い浮かぶ。何人もの職人が一つひとつ鉛の活字を集め組み立てる、という丹念な過程を経て出版が成立する、そんな時代がおよそ100年間あった。

その時代では、活字になるということは一定の社会性を獲得するということを意味し、文章をおこす側もそれなりの自意識と気合を込めて書いていたのではないだろうか。

活字印刷のページを指で感じながらそんなことを思う。














2013年6月25日火曜日

朝鮮の女性蔑視--養子制度と再婚の許容に関して

日本と朝鮮 養子制度の大きな違い
「家系重視」の封建時代、日本にも朝鮮にも養子の制度はあった。日本では300諸侯(大名)はじめ庶民にいたるまで頻繁に養子縁組が行われたが養子を求める範囲が広かった。
朝鮮では同姓同族の人間のみ養子になりえたが、日本では他家(異姓)からも養子をとった。他家から養子をもらう際に活用されたのが婚姻によって結ばれた親戚関係である。
米沢藩上杉家は戦国最強・上杉謙信を祖とする有名大名だが同族からの養子や他家からの養子が活躍した。
謙信(初名は長尾景虎)自身、兄の養子となって19歳で越後守護代職につき、軍神とも評せられた後、31歳で名門山内上杉家の上杉憲政の養子となった人物だ。
初代藩主 上杉景勝は謙信の姉の子で養子。
九代藩主 上杉鷹山が江戸時代を代表する名君といわれるのはつぶれかけた藩の経済を立て直した上に、藩という共同体と人民が君主(藩主)に奉公するのではなく、君主が共同体に奉公するのだという家訓を残したからだが、彼も他家(高鍋藩秋月家)からの養子だ。
             上杉 鷹山
   
なぜ彼が相続したのだろうか。
彼を養育した祖母(母の母である豊姫)が上杉家の出身で、「我が孫ながらなかなかに賢い」と、当時の八代藩主に幼い鷹山を婿養子とするよう推薦したことと、彼の実父・秋月種美への世評が高かったためといわれている。
上杉一族の男子は大勢いたが、同姓本位ではなく、人物本位で選ばれたということのようだ。朝鮮ではありえない相続である。
鷹山を養育した祖母・豊姫の父は四代藩主綱憲だが、彼もまた他家からの養子でかれの実父は忠臣蔵の準主役として有名な吉良上野介義央、母が三代藩主・綱勝の妹・富子。

早すぎる朝鮮の結婚年齢
朝鮮では異姓からの養子(婿養子)は考えられないから、各家の当主とその後継者はなんとしても男の子を設けることが使命とされる。
そうなると、早婚が一般的となり、名門家の長男は10代で息子がいるという状態が当たり前になる。 その息子の母である女人は10~15歳で婚姻する。
まさしく子供を産むための装置である。
朝鮮王后の候補者になりうる条件はあれこれあるが、年齢の条件は9~12歳だそうだ。(金用叔「朝鮮朝宮中風俗の研究」


日本での離婚と再婚

江戸期の日本では当事者の合意があれば離婚再婚に問題はない。武士でも庶民でも、離婚について夫婦が合意した場合、亭主がさらさらと離縁状(3行半の書式)さえ書けば円満に別れられたし、再婚も珍しくない。
亭主が絶対に離婚しないといった場合でも、それなりの理由があれば、公的な離婚訴訟をおこす手段もあった。

江戸時代の武士がさらさらと書いて妻にわたした離縁状(三下り半)
「以後、あなたがどこへお嫁にいこうと、私はかまいません」というようなことがかいてある


上流家門の場合は、女人の再婚、再々婚は制約が多い事柄であったはずだが、非合法ではなかった。
徳川3代将軍家光は初代の家康を除けば、正室の子が親の後を継いだ唯一の例(他の将軍は皆側室の子か養子)だが、彼の母は再々々婚の後、彼を生んでいる。

では朝鮮社会では女性の再婚は認められていたのであろうか。
これは実質的に禁止されていた。 庶民の間では実際には行われていたはずだが、女性の離婚・再婚は公的には、”禽獣と同様の淫穢の行”として許されないことだったのだ。
特に儒教倫理の締め付けが厳しいときは、ひそかに再婚していた庶民の女が糾弾され、なぶりものにされたという。

日本に対する”小中華”意識
儒教倫理の締め付けが強化された背景として、実は日本との関係も影響したのではと思われる。
江戸時代、朝鮮は日本を”夷狄”と規定しそのことを自分たち自身に納得させようとした。 日本の男女が、白昼往来で和んだりするのを見ては、「愧ずべきである」とつぶやき、離婚・再婚の自由度が高いことを知るや「禽獣と同様の淫穢の行」だと叫んだのである。
翻って、自国(朝鮮)ではそのような”道に外れた行為”は絶対に許さないと厳罰でのぞみ、女性の人権を踏みつけにしたのだろう。






朝鮮の族譜に女性がどう書かれていた

「オンドル夜話」の著者 尹学準氏は慶州北道安東郡で生まれた古いふるいヤンバンの末流の小宗孫で、法政大教授。朝鮮文学などを専門にした。
2003年1月に東京で死去。享年69歳。

以下は本当の族譜に女性がどう書かれていたかがわかるくだりだ。

--(1970年代末に、作成されたばかりの分厚い「坡平尹氏九房派」族譜が送られてきた)--

私はこの族譜のことで我が家の女どもから猛烈な糾弾を受けた。・・・・そこには我が家の二人の娘の名前が載っていない。・・・・族譜は徹底した男系中心・女系無視の記録だから。

それでは女はまったく記載されていないかというと、そうではない。たとえば小生の項だとこう書かれている。長男だから父の名前の真下に

子学準。 字建相 壬申二月六日生、 配安東金氏

__と。 「建相」という当の本人も知らない字がついているのには驚いたが、要するに1932年の陰暦2月6日に生まれ、安東金氏の女房を娶った男がこの私であるというわけだ。
この場合、女房には人格がない。あくまでも本貫が安東の金氏の家から来たということですまされる。人格がないから名がないのはいうまでもないが、生年月日さえ記されていない。ただ、死んだ後だと死亡年月日と墓の所在地が記される・・・・


・・・・・
妻の項について今少し述べると、私の場合は日本にいて資料がわたらなかったから省略されたのだろうが、本来なら妻の父親の名が記載される。それどころか、妻の祖父や外祖父に偉い人がいると、その名も官名とともに記録されるのである。男系中心・家柄本位もここまで徹すると見事というほかない。
また、私には女のきょうだいがないからあげられないが、父には一人の姉と妹がいる。私の姑母(オバ)たちだ。彼女らの記録はこうなっている。たとえば父の姉の項は

女李源伯 真城人 父趾鎬 子東成 東三
となっている。
読み方は女は本貫が真城の李趾鎬の子である李源伯なる男に嫁いでおり、 東成 東三を産んだということだ。
姑母は実は二人の男の他に女の子もふたり産んでいるが、もちろん女だから載っていない。


 


2013年6月20日木曜日

韓国の夫婦別姓について噴き出したくなる話

噴飯ものの話

--朝鮮の家族制度は”夫婦の平等関係”でも日本と中国に  ずっと先に進んでいた--
などという人間がいたら噴きだしてしまう。

噴飯ものの話のついでに30年前に在日のインテリが書いた本の抜粋(黒字部分を除く)を紹介する。(私はこの本の内容を信用している)
在日朝鮮(ヒト)----ことに日本のインテリと交流の機会が多い知識人には国粋主義者が多いようだ。
たとえばこういう会話が行き交うのにいくたびか出くわしたことがある。


  --朝鮮の場合、女性は結婚しても苗字が変わらないそうですね。  --もちろんです。日本の場合、昨日まで田中○子だったのが、結婚したとたん亭主の苗字になる。これはいけませんね。まさに従属そのものじゃないですか。  --そうだわよね。女性蔑視の最たるものだわ。朝鮮の女性はなんとすばらしことでしょう。うらやましいわ。  --女権獲得のため大いにがんばることですね。

この羨望のまなざしをこめて問いかけてきたのは、日本の進歩的な女性、ウーマン・パワーのリーダーの一人であった。
かくいう小生もこういう内容のことで幾度か話かけられたことがある。
そのとき私はどう答えたか。
--いや、実は朝鮮の女は名前さえないのですよ。
などと正直なことは絶対に言わない。ただニヤニヤ笑ってその場をごまかし、なんとか話題をそらしたりするのだ。

男女平等を叫ぶ無知な日本の運動家(赤字)と在日朝鮮ヒト(青字)の噴飯もののやり取りが例示されている。
「国粋主義者が多いようだ」というのは日本人の無知に付け込んで、真実と反対の印象を与えようとする在日知識人の傾向を同じ在日の著者が困惑・陳謝している表現である(jitou)

「女には名前がない」とはゆゆしきことだが、少なくとも族譜の世界に限っては女の名は絶対にないのである。
たとえば、李朝時代の名賢、李栗谷(1536~84)の母堂は申師任堂で、良妻賢母のかがみとあがめられているが、「師任堂」は号であって名は未詳である。
また女流詩人として有名な許可蘭雪軒(「洪吉童伝」の作者・許筠の実姉)もしかりだ。
これほど高名な女性にさえ、号はあっても名はないのだから、推して知るべしだろう。
  尹 学準  「オンドル夜話―現代両班考」 (1983年) (中公新書)___p74^75


儒教社会・朝鮮では女性は人間扱いされていなかったも同然であって、族譜にはただ女としか記録されない。女性は儒教的価値観では子供を生む装置である。
(日本にもそのような傾向があったが半島ほどひどくはない)


現在の韓国や中国の夫婦別姓は近代まで女性が名前を記録されず、(父方の姓+女)でしか記録されなかった、その名残である。
韓国人はそのことを恥じることはあっても、誇ることではないはずだ。



日本の女城主


                 天璋院篤姫(敬子)左  と皇女 和宮(右)


日本の江戸時代、女性が結婚の後、婚家の苗字に変わったのは婚家の正式な一員になったということを意味する、
状況によっては婚家の当主としてふるまうことも正当化される。

明治維新のとき鳥羽伏見で敗北した徳川宗家15代慶喜は自ら謹慎し江戸城を立ち退いた。
慶喜なき江戸城の主となったのは13代将軍の正室・天璋院篤姫(敬子)と14代将軍の正室和宮であり、彼女たちは落魄の徳川家を代表して、徳川宗家の存続と江戸の住民の安寧のために、それぞれの実家(薩摩藩、

皇室)をリーダーとする征東軍に対して外交的に立ち向かったのである。


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以上の内容の投稿をしたら反論してきた韓国人がいた。
私の投稿の前に

ハーバード大学教授サムエルホンティントングは 
「韓国の家族制度は東洋の家族制度の中で特に夫婦の平等関係でも日本と中国に  ずっと
先に進んで合理的に組職されている」
と言った

などと紹介した韓国人だ
「サムエルホンティントング」とは「文明の衝突」の政治学者サミュエル・P・ハンティントンのことだろうか。
韓国の家族制度の先進性を示すために朝鮮時代の系図など持ち出してきた投稿者だ。
以下のようなやり取りがあった。

 namgaya33 06-15 12:10:18 
誤った情報の海でスイミングをしていますね ..朝鮮時代女性も名前がいたし系図に上がりました証拠もある 

    namgaya33 06-15 12:11:48 
そして下の掲示物 .17世紀系図で娘と娘のご主人お子さんすなわち 外孫と壻皆系図に上がっていて 

    namgaya33 06-15 12:13:34 
現在も日本の女性は結婚すれば自分の 姓を忘れてしまっているのね ...

    namgaya33 06-15 12:26:25 
宋時烈 (宋時烈 1607年‾1689年)家門の系図によれば宋時烈お母さんグァックスックでは (郭淑善) 宋時烈奥さん 李応(1606年 ‾1677) 系図に上がっている 

    jitou6000 06-15 12:37:09 
でたかnamgaya。 追加のスレッドを立てようかな。 君たちの教養を高めるであろうから感謝する準備をしておいてもらいたい、

    namgaya33 06-15 13:09:57  
jitou6000 >>朝鮮時代女性が系図に上がっただと認めるか? 


   jitou6000 06-15 14:09:46 
namgaya< 女性で正しく名前が記録されているものは”ほとんど0パーセント”ということを素直に認めるか?

   namgaya3306-15 14:19:20 
証拠を見せても変なものを言うのねお前の間違いを認めなさい 
    jitou6000 06-15 14:36:26 
namgaya< 証拠をみせる自信があるなら、歴代王后の(姓ではなく、号でもない)個人名を列記すればよい。簡単だと思っていいのかな?



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歴代王后の(姓ではなく、号でもない)個人名を列記してみてくれといったがそれ以後なしのつぶてだ。
 



2013年6月12日水曜日

難解でなければ価値がないのか?

現在読みかけの本がたくさんある。

”日本の言説空間”があると仮定して、その見取り図的なものが欲しくなり、東浩紀の「存在論的郵便的」というのを読んでみた。

難しくて読み通せない。

少し昔の浅田 彰の「構造と力」という本も読みかけたが、中断している。
東浩紀よりも読み易いのだが、引き込まれるような感じがまだないので読み続けるのが億劫になる。

何気なく手にした竹田青嗣の「言語的思考へ_脱構築と現象学」というのが意外と読みやすい。デリダへの批判的批評のようだが、これは読み通せそうだ。


ただ、この本の中で小林秀雄と柄谷行人の名前が出てきた。
そして、彼らにとって記念碑的なエッセイだという「様々なる意匠」と「批評とポストモダン」という作品もおさえておかなくてはという気になった。

「様々なる意匠」をとりあえず読んだ。マルクス主義文学に対する批判的視点が窺えるが、難解なため、もう一度読まなければ理解した気にならない。

読み通せたのは、なにより、短かったおかげである。

小林秀雄の「様々なる意匠」を読むついでに宮本顕治の「敗北の文学」も読んでみることにした。ある意味では両者は対の関係といえるだろう。











    小林秀雄              宮本顕治

こちらのほうは予想通り、ずいぶん読みやすい。しかし読みやすいからといって支持できるかというというと、また別問題だ。

 
今、つらつら思うのだが、この種のランドマーク的言説というものは、どれもこれもみな難解である。最後まで読み通しずらく書く、という約束事でもあるのだろうか?








2013年6月7日金曜日

「青瓦台」の名前の由来



韓国大統領官邸は「青瓦台」(Blue House)と呼ばれるが、由来について、日本人も韓国人も本当のことを知っているかどうか疑問である。

 朴正煕達歴代の大統領が執務した初代の青瓦台は日本の植民地時代の1939年に朝鮮総督官邸として建設された。
大韓民国成立後後、李承晩は景武台と呼んで韓国大統領官邸として使用。1960年に尹潽善大統領が屋根の色から「青瓦台」と名称を変更した。
ここまではよいのだが、
「屋根の瓦の色が青と緑を合わせた色だったからで」
KBSの情報ページ(world.kbs.co.kr/japanese/program/program_sisa_detail.htm?No... )


とあるのは間違っているか誤解を招来する説明である思われる。今はなき初代の青瓦台の画像を見てほしい。


取り壊し前の初代青瓦台


新築時の総督官邸.

普通の西洋建築であって、瓦の屋根ではなく、スレート葺きか銅板葺きと見える。
新築時の総督官邸の写真の色は後処理で加えた可能性があり、ほとんど青くはなく、黒といったほうが正しいだろう。

屋根材は日本のレンガ造りの一般の洋館と同じ、天然スレートであったと思われる。
銅板葺きではないとするのは取り壊し前の写真で、緑青の色が見えないからである。

つまり初代の青瓦台の屋根は、現在復元中の東京駅、旧法務省本庁舎、
旧北海道開拓使庁舎と同じ材質だったということになる。


旧法務省本庁舎


旧北海道開拓使庁舎

ではなぜ”青瓦”と名づけたかというと、これらのスレート石は光線の加減でやや青みを帯びて見える天然素材、玄昌石が使られていて、朝鮮の普通の瓦の色と異なっていたからだろう。


復元中の東京駅

玄昌石は日本では三陸海岸沿いに産出され、雄勝石(オカチイシ)などとも呼ばれる黒色粘板岩である。


雄勝石(オカチイシ)を使っている歩道。

青瓦台の由来はこの自然石にある。



以上の内容は一年半前に日本人と韓国人が”交流”するサイトに投稿したもの。
http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?uid=9454&fid=9454&thread=1000000&idx=1&page=1&tname=exc_board_1&number=1&f=name&word=jitou6000

韓国サイドから異議を申し立てるものが約一人いたが、その異議は粉砕したかたちになった

なお、最後の雄勝石(オカチイシ)を使っている歩道の写真は次のサイトからの引用です。

http://www.hirahaku.jp/web_yomimono/geomado/sekiz22.html

2013年6月6日木曜日

考えがまとまったら、たまに投稿

頻繁に投稿するつもりはない。面倒くさい。
もともと手紙もメールもほとんど出さない。

とはいえ、掲示板で議論をするのは好きだし結構やってきた。
たまに、まとまった文章をUpしてみたい。

文明論とか日韓の歴史の考察とか。