2017年6月11日日曜日

江戸時代の国際問題の真相_朝鮮通信使の歴史(3/4)


5 江戸時代の二国間関係

大変残念なことに、半島で生まれた、この図式と言説は19世紀末まで、対日関係の大きな制約として続いた。先にあげた書記文化についていえば、科挙の制度はこの間、朝鮮において牢固とした体制となり、党派を生み出すものとなったが、他方で(漢詩・漢文の能力=特権)の伝統原理を相対化する潜在的な脅威もまた存続した。ハングルは公的な場から追放されたものの、一定程度浸透し、隣国日本においても朝鮮とは異質な書記文化は隆盛を誇っていた。

この間に、日本を野蛮とする教義を増大させる出来事もあれば、減少に向かわせる出来事もあった。

増大させる要因として ①16世紀末の秀吉による朝鮮侵攻、②後金(清)による朝鮮侵攻と後の属国支配(これを契機とする朝鮮の小中華思想)  

減少に向かわせる要因としては ①豊臣政権の滅亡、②半島に侵攻した後金軍に対抗する、対馬藩や徳川幕府の朝鮮への援軍の申し入れ、軍事物資の支援、③通信使の儀礼外交の復活、④釜山の倭館を通じた貿易の安定化

等があげられるだろう。

結論から言えば、蛮夷として蔑視すべきもの=日本という原理は強化されることはあってもその逆はなかった。日本にきた通信使たちは、公式には言わないもの、例えば松平姓の者同士の結婚など(同姓婚)を禁止しない日本人を、「ケダモノと変わらない」、とののしったり、男女が往来で立ち話などしていたら「淫らな国俗」であると、いちいち蔑んでいた。

室町時代の通信使(世宗の通信使)の時代は、お互いの使臣は国都を互いに往来していて、漢城(ソウル)には訪問する日本人専用の宿泊施設(倭館)もあったのだが、江戸時代においては善隣外交を唱えながらも、幕府側からの使者は釜山どまりであって、漢城への通行は拒否されていた。

6 茶番劇となってしまった通信使

日本蔑視が外交儀礼の場に露出してしまい、事件となったのが正徳年間の通信使であろう。徳川六代将軍家宣の襲位を祝賀するための通信使の大行列は、これを描いた絵画も多く、華やかな記録として残っている。

しかし、一行の壮大な江戸往来は結果からいえば、まったくの茶番劇に終わってしまった。問題はこの時の朝鮮国王からの国書の中に「光」という文字が使われていたことであった。これは家宣の祖父の「家光」の名前と文字がかぶっている。

中国など伝統的な漢字圏では王の本名(諱)をどのような文書であれ使うこと(犯諱)は絶対のタブーとされていた。日本には犯諱の禁はないが、名前は大事なもので例えば主君と同じ字を自分や子弟の名前に許しもなく使用するのは控えるという風があった。

中国や朝鮮での犯諱の制は王と臣民との間のもので、臣下同士の間で相手の諱を呼ぶことは、犯罪とはいえないが、非礼なこととされ忌避された。

国書の文言というものは慶祝的な意味をもった数行の短いもので、毎回同じ内容であっても差支えないものである。形式的な礼儀をまもることさえしておけばよい。したがって、朝鮮側国書に盛り込まれたこの文字は偶然とはとても考えられない。彼らは意図的に”犯諱”類似行為をおこなったのである。

この時、日本と朝鮮の間には、対立するような何か特別な事情があったというわけではない。しかし外交を担当した将軍の近臣新井白石は、両国の文明対等の原則を確認する意味合いもあったと思われるが、江戸時代の国書における将軍の呼称が「日本国大君」であったのを室町時代の国書に使われていた「日本国王」に変更し、また冗費削減のために、物見遊山にすぎない通信使の日光参観をやめることを事前に通知し、了解をえていた。

公式に異議を唱えないものの、これに対する、不快感の暗黙の表明が朝鮮側の犯諱行為であったと思われる。将軍家宣と白石は朝鮮国書中の文字を見て、瞬時にその底意を理解し顔色が変わったはずである。

じつは、家宣は事前に、通過する諸国に、通信使一行の応接にあたっては親切な配慮をするように繰り返し指示を与えていた。彼は朝鮮側に存在する日本蔑視の因習を認識した上で、日本に対する評価を変えさせようと希望していた。更にその延長上には半島を通して清国と国交を開くことを願望していたのかもしれない。

過去、家康は朝鮮を通じて明国と講和することを追求していたし、家光による朝鮮への援軍派遣の申し入れも、本心はこれを潮に明国との講和を展望していたものであった。

しかし、朝鮮国書の犯諱によって、彼の準備は無意味であったことを悟らされたわけである。

犯諱の禁がない日本としては朝鮮からの国書を受け取らざるをえない。しかし、白石はこのような「礼」には同等の「礼」をもって応えた。家宣から朝鮮国王あての返書の文中に朝鮮王七世の祖である中宗の諱の「懌」の字を盛り込んだ。

通信使の趙泰億はここに至って、この返書の受け取りを拒絶し、日本側に書き直しを強く要求した。その際、白石と趙泰億のあいだで、従来の外交儀礼や両国の過去の歴史関係に関する議論が行われることとなった。

そのような応酬の後に、(問題がある文字を含む)、双方の国書を破棄し、あらためて国書の交換をやり直すことで決着をみた。

二度目の(本物の)国書の交換は、大規模な行列を仕立てることはせず、対馬において事務的に行われた。正徳度の、膨大な経費を費やした、華麗な通信使の道中は以上のような経緯をたどり、最優先の目的が無効となったため、結論的には虚構のイベントに終わってしまったというのが真相である。

通信使の往来はその後も百年間つづいた。江戸往来が三回、対馬往来が一回行われたが、表層での儀礼と内面での拒絶という本質は変わらなかった。

対等外交の原理を貫いた白石に対しては、事なかれ主義の重臣達からの批判の声が多かった。その覚悟はもとよりあったはずで、彼は事が収まったのちに、進退伺を出した。これに対して家宣は、逆に通信使の応接を白石の功として、禄高を千石に倍増したのである。

 

軋轢と日本蔑視はなぜ生じたのか_朝鮮通信使の歴史(2/4)


3 日本=夷狄論の発生

ハングル(当時は諺文といった)の創作は大きなコストが予想され、成否は不明であった。しかしうまくいけば朝鮮の書記文化の画期を成し大きな影響をもたらす可能性があった。それとともに、他方ではこれに反発する動きも大きかった。

第3回通信使が還った二カ月後の1443年の12月、『訓民正音』(ハングルの定義本)が出来上った。その翌年2月、この諺文作成に反対する陣営を代表し、集賢殿副提学・崔万里が世宗に対して正面から批判する長文の意見書を提出した。朝鮮の頭脳を集めたといわれ、申叔舟も所属していた集賢殿は二つに割れたのである。

彼らはさまざまな角度から反対の論陣を張ったが、日本人として注目すべきは反対上疏文の中の次の箇所であろう。

蒙古・西夏・女真・日本・西蕃などだけはそれぞれも字を持っていますが、これらはみな未開人の所業であり、言うに足りるものではありません--東洋文庫『訓民正音』(原文・別為文字者唯蒙古西夏女眞日本西蕃之類各有其字是皆夷狄事耳無足道者傅曰用夏變夷未聞變於夷者也)」

中華によって夷狄が感化されることはあっても、その逆はけっしてあってはならない。夷狄(蛮族)である日本の真似をしてはいけない、と主張している。

ここで朝鮮の文人たちがハングルに強く反発した動機の深層を考えてみたい。人類の文字の歴史は5千年とされるが、一般庶民が識字能力を持つようになったのはごく最近のことだ。古代のエジプトの神官やヨーロッパ中世の僧侶など例外的な一部の人間が書記文化を独占し特権的な地位を保っていた期間の方がはるかに長かった。

学習に多くの時間を要する漢字の使用圏では「識字能力=特権」の社会文化が特に強かった。中国や朝鮮で長く続いた科挙の制度はこれを背景としたもので、少数の読書人階層と多数の文盲階層との間の段差を大きくし特権の根拠を強め、絶望的に急峻な階梯の頂点に皇帝を置き、社会の安定をはかったものといえる。

この時代の朝鮮は、漢詩、漢文の能力によって官吏を撰ぶ科挙を通過したものが朝廷の主流になりつつあった。ここにきて新しい表音文字が出現し、識字人口が増え、科挙の制による特権の根拠を弱めることをきらったと考えるべきであろう。

それと同時に隣国日本に対する見方が変化することとなった。表音文字が広く利用され、科挙の制がなく、書記文化に、身分制度を保証する役目が乏しいのが日本である。しかしながら、王家が長く続いている。いわば、中国・朝鮮では原理ともいえる科挙の制にたいする一種のアンチテーゼともいえる存在である。そのような日本のすがたを意識させられたとき、ハングル反対派を筆頭に、警戒心と反感が新たに生まれてしまった。

4 本来の世宗の日本観

もともと朝鮮の人士は日本を野蛮な国とは考えていなかった。これに関しては世宗の重要な発言が参考になる。第1回目の通信使(彼が日本に派遣した4回目の王使)の出発の数か月前(1428年)、群臣の前で彼はその目的を次のように宣言した。

 「日本には百篇の尚書があると聞いた、通信使に購入させる必要がある。また日本の紙はしゃきっとして強い。この技術はなんとしても習らってこなければならない(原文・聞日本國有百篇尚書可令通信使購來且倭紙堅靭造作之法亦宜傅習《世宗実録 巻四十一》)」

尚書とは書経のことで、信憑性があると言われる今文尚書は二十八編であるが、もともとは百篇であるというひとつの伝承があった。日本は歴史の古い国だから、太古の文物が残っていても不思議ではないという感覚があったものであろう。

また世宗は日本の紙製品を実際に手に取っていて、その質に魅了されていたことがわかる。名目は別として本音の部分では、日本の造紙の技術習得が、通信使外交開始の最大の目的であることは明らかである。

世宗実録をみると、彼は第1回通信使の派遣の後も対馬に人を派遣して「倭楮」をもってこさせるなど、たびたび造紙のための直命を発している。

(そのような世宗の執着のおかげで、この後朝鮮の紙(韓紙)は国際的にも高評価を得るようになっていく。)

もとからあった、そのような日本観を大幅に変えて、朝鮮を中華(文明国)とし日本を夷狄(非文明国)とした図式はけっして、皮膚感覚から来たものではなく、自然発生的なものではない。これを変えさせたものは、科挙の制度を護持しようとした、文人階級の危機感であった。

日本夷狄観は崔万里たちハングル反対派の”理論武装”の一環として、日本と向き合うときの、大原則とされたのである。

最も意味の大きな往来はいつの時代か_朝鮮通信使の歴史(1/4)


 

1 入京を拒否された通信使


朝鮮の第四代国王世宗が日本に送った3回目の通信使は1443年5月末~6月にかけて、兵庫に上陸し京都に向かった。

 この時の通信使に関して、中原康富の日記『康富記』には興味深い記述がある。なんと、室町幕府は一行の入京を拒否し、この儀礼外交をなんとか止めさせようと苦心していたのである。幕府は政治的な不安定と財政難に苦しんでいた。


この時期の京都は南北朝合体以来の動揺期であった。嘉吉の変、嘉吉の土一揆と徳政令と続き、幕府の財政は破たんしていた。室町幕府には外交を展開する意思も余裕もなく巨額の出費をともなう儀礼外交をなんとか避けようとした。


「康富記」には次のように書かれている。通信使の一行に対して幕府は「新将軍はまだ幼く、諸大名も(恥ずかしながら)現在は外交儀礼のための多額の費用を捻出することが出来ない、京都に来てもらっても無益である(原文・室町殿御幼稚時分也、諸大名国役已下要脚無沙汰之時節也、旁為無益歟)」と申し渡した。兵庫の津での交易を行った後、そのまま帰ってもらいたい、という機関決定を伝えたのである。

しかしこの通知に対して通信使の側は「すべて前例にのっとって行ってもらいたい」と強硬に主張し、結局京都での外交儀礼を実行させた。

通常、国書を携えての平時の王使の往来にあたっては、事前に通告し相手の了解を得たうえで派遣するものであろう。しかし、この時の通信使(世宗が日本に送った7回目の王使)は合意に基づいて出発した形跡がない。幕府財政が崩壊の際にあること、歓迎されざる客であること、それらを百も承知の上で日本に向かったのである。

じつはこの時の通信使には秘めたる重要な目的があり、何が何でも日本の国都にゆかねばならない事情があった。まさに同時期、世宗とその世子が力を入れていたのは朝鮮の独自の国字(ハングル)の創製プロジェクトであった。大詰めに差し掛かっていたこの計画の中核を担っていた若手の官僚が一行の序列3位である書状官として日本に派遣されていた。その人物とは後に朝鮮初期を代表する文人政治家となる申叔舟(当時二五歳)である。

2 ハングルの創製と日本の書記文化

半島では千年以上にわたって漢字のみを使用していた。新たに朝鮮語に即して独自の発音記号を作り、使う、という目的のためには、(漢字に加えて)独自の国字を使った書記文化の蓄積を持っていた、当時ほとんど唯一の国、日本に学ぶことは多かったはずである。

新たな文字を定義し、普及しなければならない立場となれば、例えば

  1.  どのようにして一般大衆に識字教育をおこなっていけるのか?そのコストは?
  2.  公式文書、契約関係の文書、その他における漢字かな混用文の利用範囲と実態。日本の書記文化の代表的な資料の歴史的背景とその収集。
  3.  かつての仮名文字作成を正当化する何らかのイデオロギーの有無。反対活動の有無。
  4.  庶民が文字を使用することによる悪影響の有無。
    などを日本の中心部において、確認する必要を感じていたであろう。二十数年後に叔舟が編纂した『海東諸国紀』に「日本では男女の区別なく、みな、その国字を習う(原文・無男女皆習其國字)」とあるように、彼にはわが国の書記文化に対する十分な認識があった。この時の通信使の派遣はハングル創製のための必須の工程として位置づけられていたのである。
    しかし、幕府を運営する側としてみれば財政的に傷口に塩をなすられる思いであったろうから、友好的な雰囲気であったとは想像し難い。世宗の直命があったとはいえ、遠く波濤を越え、あるいは生命の危険をも冒して京都を目指した通信使一行の使命感の強さと切迫感を、我々は思い浮かべるべきかもしれない。
    現代の半島ではハングルへの評価はきわめて高く、そのため世宗は二十七人の朝鮮王の中の代表的な存在とされ、五百年にも及ぶ歴史の中で傑出した尊崇をうけている。紙幣の肖像にとどまらず、その名を冠した都市、施設、艦船、組織などをただちにあげることができるほどだ。
    一方、見方を変えるならば、日本は意図しないながらも、半島でのハングルの作製に大きな寄与をしていたということも可能である。
    日本と韓国の文化の往来という面から通信使の歴史を振り返ってみるとき、この場面はある意味で最も大きな地位を占めるかもしれない。
    現在、日本と韓国の有志が共同で通信使関係の記録をユネスコ世界記憶遺産への共同申請中である。
    ところが、仄聞するところでは、先の『康富記』など、室町時代の記録は一切除外されているという。これは全く意外なことだ。世界の歴史の中でも、日本と半島との関係の長さは注目されてよいが、文化的な交流・影響、その劇的な結果という点で、世宗の第3回の通信使ほど重要な意味を帯びているものは無いように考えられる。関係者の再考を切にお願いしたいところだ。