橋下徹氏が、徴用工問題・輸出管理政策でヒートアップする両国の政治と国民感情について自説を展開していました(7月18日放送のAbemaTV)。
橋下氏、徴用工問題めぐる日韓の応酬に「日本と韓国も、僕と百田尚樹さんのようになればいい」
靖国参拝についての彼と百田尚樹氏のやりとりを例として、どのようにひと段落させるのが望ましいかのイメージを述べました。「プライドをかけて激しく言い合って良い。」面と向かって、さんざんに主張し、そのプロセスを実行したうえで、「そこはわかる、だけどな・・・」っていうように、互いの主張を部分的には理解し合う。その後棚上げできる部分は棚上げしたり、休戦したりできればよい、というわけです。
かつての日中間の尖閣衝突事件のときの中国の戦術(レアアース輸出停止)と日本の対応の事例などをふまえ、今回、韓国側の対策の予測もあり、感情を昂ぶらせず冷徹な分析をベースにした、バランスのとれた見解だと思います。
つまりは、批判、罵倒、激論はいいけど、不信と憎悪を募らせずに、問題をいかに収束させるかということです。これが「本来の喧嘩の仕方」いうものなのでしょう
その主張の説得力は、百田氏や櫻井よしこ氏たちよりもずっと高いものがあります。
しかし、彼もおそらく分かっていると思いますが、けっしてそうはならない。
残念ながら、そうはならない現実がある。
個人対個人の論争では言葉をやり取りするうちに、相互理解という現象も起こりえますが、政府対政府、国対国の場合では、それは難しい。双方が理論武装し、それぞれ「正義」を称するからです。
理論武装の中身としては、法律論もあれば歴史過程への認識もあります。
橋下氏は「日韓併合と植民地支配の歴史がある以上、歴史認識などでは絶対に一致することはない」と述べています。
これまでの通念として、反日感情の源泉は日本帝国による半島支配(日帝三十六年)によって、半島人のプライドを損傷し、抑圧したことが原因であるとされてきました。この点においては彼も朝日新聞などと大差ありません(日本人として向き合わなければならない事柄のひとつです)。
このため、現代の韓国人は、自分たちは日本人よりも倫理面で優れている(逆にいえば、日本人は攻撃的であり、倫理面で韓国人に劣る)、ということをアピールしたい欲求が強い。これが反日の土壌としてある、という理解です。
ところがしかし、2017年6月のブログで述べたように、70年後の現在、日帝時代の体験者世代よりも、後の世代の韓国人の方がむしろ反日欲求が強いことが判っています。この認識だけは、両国の識者が共有しています。
つまり、従来の定説の理解では足りないということです。別な要素があるはずです。
ひとつには教育の問題があるでしょう。日帝時代を知らない世代は、教科書に書かれている日帝収奪論を信じて、実際に当時を生きた人々よりも、強い反日感情を持つという現象が生ずると考えられます。
しかし、日帝収奪論(日本は朝鮮の歴史的文化を破壊し、朝鮮を収奪した)ばかりではなく、日帝が朝鮮を近代化した(日本は朝鮮に多くのものをもたらした)という歴史観も韓国にはあります。問題はなぜ日帝収奪論ばかりが教科書で強調されるのか、という点にあります。(中世にさかのぼれば世宗による通信使の往来は、教科書ではほとんど触れられず、他方、秀吉による侵攻が大きくとりあげられている)。つまり偏向した教科書をつくらせている要因が、さらに別に存在していると考えるべきです。
先のブログの中で、わたしは
ここで文化の面での韓国人の自意識の問題を考えてみたい。国民的文化の歴史性、独自性、連続性についてどのような自画像を持ちうるのか、という点である。近現代はナショナリズムの時代とも言われている。そこではそれぞれのネーションが文化的な自画像を持っていることが暗黙のうちに要請されているのではないのだろうか。
と、国民文化の自意識についてふれました。そしてまた
しかし、韓国の場合はどうであろうか。江戸時代には日本からの文化的な影響を遮断すべく理論武装を徹底したが、それが裏目となって、近代化の決定的な時期に、逆に深部に至るまで日本文化を注入されてしまった。そしてこれは取り返しがきかない。いまさら朝鮮時代にもどって、成人女性の往来通行を禁忌することなどできないのである。
このような経緯があるため、現在の韓国人にとって、国民的文化の歴史性、独自性、連続性についての自画像を描くことは気楽な作業ではない。さらに、第2次大戦後しばらく日本と断絶し、反日のスタンスをとって国家をスタートしたことも困難さを増す要因であろう。現在の韓国の生活文化の中でどれが日本由来であり、どれがそうでないのかを明確にする自信は韓国人にはない。
とも書きました。国民文化に関して韓国人の自意識には脆弱性と問題性がある、とみています。つまり要約すると、
- 韓国の現代の文化は日本の文化の亜流、ないしは借り物の性格が大きい。
- しかし韓国人は絶対にその現実を受け入れることができない。その為に、日本を「戦犯国家」などと罵ることで心的バランスをとろうとする。これが見過ごされがちな反日の真の要因である。
と言えるのではないでしょうか。
ところで韓国人が「その現実を受け入れることができない」のはなぜかと考えてみると、その理由もいくつかありますが、15世紀に発生し、江戸時代まで続いていた、「日本=夷狄(野蛮人)」という半島の俗説が影響を与えている可能性があります。
朝鮮の文人はことある毎に、自らを文明とし日本を「倭賊、蛮酋」など(非文明)として誹謗してきましたが、そのなごりが今も残っています。昔の朝鮮は江戸時代の日本より「先進的」な文明をもっていたと根拠なく信じたり、ウリジナルと呼ばれる、文化起源を詐称するという現象などです。
このような日本夷狄視は、大昔からあった、とか秀吉の朝鮮出兵によって生じたと信じられていましたが、ほんとうのところは、朝鮮出兵より150年前、通信使の歴史の中で発生した、”書記文明の衝突”によって生じたと考えるべきです。
それは日本の影響によって生まれたハングル(諺文)に対する恐れと反発という種から発生した想像の作物というべきものでした。
数百年後の現在、ハングル自体に対する半島人の評価はすっかり反転し、近代の要請としての国民的文化のアイコンとして重要な地位を占めるに至っています。十五世紀に反対上疏文をまとめ世宗に反抗した崔万里たちは現代の半島人の意識の中では国民的敵役になっています。したがって、本当であれば「日本夷狄論」は半島においてもすでに死滅していななければならないのですが、そうなっていません。日本を「倭賊、蛮酋」とみなす言説の期間が長く続いてきたため、そしてその原因が偽装されてきたため「日本夷狄論」の真の起源がどこにあったのかということが忘れ去られてしまったからです。
つまり、元に戻ると
③なぜ韓国人(朝鮮人)が国民文化の現実を受け入れることができないかといえば、半島にはゾンビが巣くっていて、受け入れを阻害するからだ。そのゾンビとは15世紀の朝鮮通信使の時代に起こった「書記文明の衝突」により生じた、日本を野蛮とみなすという悪癖であり、代々受け継がれてきた社会的遺伝子である、
という結論にいたるわけです。
いま、このような状況においてこそ、このゾンビを退治したいものです。