2026年7月11日土曜日

女性天皇を迎えてこその日本

皇室典範改正に関心が高まっていますが、この際、女性天皇を待望する論を述べさせていただきます。同時に、頻繁に聞かれる男系固執の論には歴史認識における錯誤があるのではないかと疑います。

 

 天皇の系譜が長く続いてきたことを日本の特徴の一つとして誇りに思うことがありますが、さらにもう一つ、過去何人もの女性天皇を輩出してきたことが古代の日本の大きな特徴であると考えます。

古代から世界中、いたるところに王がいて、男優位の伝統社会であったので、ほとんどが男性であったのですが、その中で、日本では同じく男優位の伝統社会とはいえ、女性の王の数の多さは目立ちます。とくに東アジア(と限定する必要はないのですが)の中では例外的な存在であったと思います。

 ではこの二つの特徴はなにか関連があるのでしょうか?無いのでしょうか?

「ある。」というのがここで述べる主題のひとつです。その前に天皇の系譜が長く続いてきたことの他の理由をあげてみるならば、列島である日本は外部と海で隔てられていて大規模な侵略をうけるリスクが小さかった。また、数百年かの歴史をもつ店や組織が多くあるように日本には一度成立した組織や仕組みを長く続けようとする傾向を持っている、などがあると思われます。そして女性天皇の存在です。

 

 一、宦官の制の拒否

女性天皇を輩出するとどうなるか、といえば、まず、東アジアの宮廷に特徴的な宦官の制から遠くなります。宦官の制は中国発祥で捕虜や被征服民族の人間を傷つけて一部の機能を奪い、使役したことが起源ではないかとされています。男性機能を失わせた男達に宮中の様々な仕事をさせたのは、皇帝の子を産む女たちの周りを宦官で囲み外部との接触を断ち、彼女たちが皇帝以外の男の遺伝子を宿す危険を避けることが主眼でした。王の女が子供を産んだとして、それが本当に王の子かどうか不確実性が残るからです。

 ところが女性の王であれば、その必要はありません。女性の王の存在は宦官の制と本質的に相性が悪いことは自明でしょう。

 宦官の制という文化は中国のみならず、周辺の諸国にも及びました。朝鮮、ベトナム、遼、金、西夏などにも移植されました。北方の異民族が黄河流域や揚子江流域に勢力を広げ、新しい征服王朝を築くという歴史の繰り返しがあったものの、結局は宦官の制を導入することになりました。宦官たちは皇帝とその家族、皇帝の女たちの身の回りの世話にとどまらず、衣食住のための労働、事務・管理的な仕事、皇帝の密使なども務め、程度の差はあれど外交や情報機関、軍事にも関与しました。宮廷の文化の実質的な担い手は実はかれらでした。宦官の制のもとでは宮中の女性はしたがって、「王の女」という役割を逸脱することは許されず、その必要もなく、外界との行き来は厳禁とされ、いわば尼僧修道院、いや女刑務所のような形態であったのです。

20世紀の辛亥革命で中国の宦官の制が廃止されたとき、紫禁城には万を超える宦官たちがいました。つまり皇帝とその家族、そして消費生活しかできない「王の女」たち、これら一握りのひとびとは宦官の海にポツンと浮かんで世間から隔絶されたような存在でありました。王宮は極めて閉鎖的であり王と民衆との隔たりは絶望的なほど大きかったわけです。

そうなると、王の一族の運命に対する一般の関心も共感も薄く小さくなろうというものです。

 

 さて、例外的な形態であったのが日本で、宮廷内の女性の役割も天と地ほどに違っていました。江戸時代の大奥が分り易いのですが、御殿勤めのお女中の役割は御台さま(正室)の補佐、将軍家の子女の扶育が主要なもので、「忠義」という、家臣団と共通の意識で勤めていました。中国であれば宦官たちが担っていた、生活文化や年中行事の担い手でもあり、事務能力や高い教養が求められる職場でした。一部に「将軍の女とその見習い」もいましたが10人か20人程度で大多数は城外との行き来も可能な職業婦人であり、家庭持ちの通いの女性もいました。さかのぼれば平安時代の紫式部や清少納言たちも一度結婚生活を経た後で、宮中に出仕し、他の殿上人たちとも普通にやり取りしていたわけで、宮廷と外界との風通しの良さは他の近隣諸国と全く異なっていました。

 

二、女性の識字率

また、女性天皇を輩出すると、宮廷を中心に女性の識字率が大きく高まります。魏志倭人伝には、卑弥呼の宮殿には千人の女性が仕えていると書かれています。そしてまた、当時の倭人は文字を利用して移送する品々の照合をしているとも書かれています。合わせて考えると、少なくとも卑弥呼の周りには識字能力があり、実用的な書記文化の担い手でもある女性たちが集団でいたことが分かります。他の女性の王の場合も似たような状況になったはずです。

 そしてこのことが、後の日本語の詩(和歌)など独自の国風文化の醸成に大きく貢献したと考えます。古代の男女間の求愛行動であった歌垣が書記文化のなかに贈答歌として定着し、万葉集や古今集の重要な柱となったのも、女性側の識字率がそれなりに高かったおかげであったでしょう。

 特に、(漢詩に対する)和歌の意義を主張(国風文学の意識的スタート)した古今集真名序を見れば、「(スサノオノミコトから)始めて三十一字の詠あり、今の反歌(かえしうた)のおこりなり、その後天神の孫、海童の女といえども和歌をもちて情を通ぜずといふことなし」という部分があるように、身分を超えて感情を伝え合うことができる和歌の力が自覚されていました。その後も宮中や周囲の女性たちは、いろいろな日記文学・物語など多様な日本文学の少なくない部分を担っていたわけですが、それらも元を糺せば日本の特徴である女性天皇の輩出という歴史にゆきあたります。

 

三、王朝が途絶えなかった理由

これまでのところを改めてまとめると

a、女性天皇の輩出と活躍

b、書記文化を担える女官たちの出現

c、宦官の制の拒否

d、後世に続く多様な国風文化の成立

e、職業婦人たちの活動の舞台となる王宮

f、風通しのある宮廷、王家と民衆との間の垣根が相対的に低くなる

g、書記文化が厚みをまし、物語の共有性が高まる

h、王家とその文化が長命化する

といった、以下の図のような因果関係を推認できると思います。


最後のほうの、g、h、あたりの書記文化の厚みについてさらに述べると、一般に新しく王朝が建てられる時には、有能で勢いのある頭目が前の王朝を冷酷に滅ぼし、その後その子孫たちが都合の良いように事実を編集し、新たな伝承とします。しまいには「自分たちが前王朝を弑したのではなく、天が彼らを滅ぼしたのだ、そう思え」となります(これを勧善懲悪史観といいます)。

 書記文化が無いか、薄ければ後世の歴史の改ざんは容易であり、中国・夏の桀王や殷の紂王の伝説が新しい支配層によってつくられました。しかし、書記文化が発達し、記録が豊富化すると改ざんは簡単な作業とはならなくなります。関係する各所の膨大な史料を全部書き換えることは不可能と思われるからです。現代のブロックチェーン技術のようなものです。時代が下るにつれ、桀王や紂王のような暴君の物語はなくなりました。

 つまり、書記文化が厚みを増し、史実の記録が大規模になると、王朝の全面的な入れ替えに対する心理的障壁が高くなります。王朝とその文化が長命化することになります。

 

四、男系天皇信仰への疑問

 現在、日本の天皇は代々例外なく男系の天皇の系譜が続いていて。奇跡的に貴重なことだ、男系の天皇を維持し続けなければ、皇統の存続が脅かされる。などの論を述べる人がいます。

 しかし、このような論には違和感を覚えざるを得ません。例えば、奈良時代、歴代の天皇は天武天皇の血筋ですが、末期の光仁天皇は天智天皇の子孫(孫)です。他に文室大市など天武天皇の男系子孫は少なからずいた(天智天皇も天武天皇も息子だけで10人近くいました)はずなのに、なぜ彼だったのか、実はかれは先王である(女性の)称徳天皇の妹の井上(いかみ)内親王の配偶者であり、二人の間には他部(おさべ)親王という男児がいました。62歳という史上最高齢で光仁天皇が皇位についたのは“他部親王の即位までのつなぎ”という理屈しか考えられないというのが定説です。奈良時代は天武天皇の子孫という要素よりも持統天皇の子孫であるかどうかが問題であったようにみえます。そうなると、男系であるとか女系であるとかはかなり曖昧ではないでしょうか。

 さらに、これに先立つ宇佐八幡神託事件というものも興味深いものです。豪族弓削氏出身の僧、道鏡を称徳帝の次の天皇にするのがよいという宇佐八幡の神宣の真偽を朝廷が問題としてとりあげたものですが、男系子孫の皇族から選ばなければならないというのが鉄則であったなら、そもそもこのような神託が真面目に取り上げられるのがおかしいのではないでしょうか。いろいろ事実をみていくと、皇位継承のパターンは多様であったと思います。

 昔の人は変化に富んだ発想があったのに、現代の人々のほうが「万世一系」とか「男系固守」とか発想が狭いと思われます。男系天皇の連続性といっても、もともと長期の王朝であれば、先祖は天皇家にさかのぼる人間が大勢いるのがあたりまえで、たまたま男系天皇が続いて来たようにみえるといったものではないでしょうか。

 男系天皇の系譜が王朝の長命化にとって重要であったのか、どのように日本らしさと関連するのか、これまでスッキリとした説明がなされてきたとは見えません。

 別に、長期の王朝の理由として、「権威と権力を分離するという知恵がよかった」とか、「ひたすら祈り続ける存在であったことがよかった」などと語る人もいますが、これは一種の結果論であるように思えます。

 天皇の制が長きにおよぶにつれ、時代が移り、実権を失ってしまうなどの変化に対応せざるを得ず、機能を限定されながらもそれでも存続してきた歴史だったのではないでしょうか。権力と権威の分離というのは長命化の原因ではなく、長命化の結果のひとつと思われます。先の説は原因と結果を取り違えでいると考えるべきではないでしょうか。

 さて、江戸時代にも二人の女性天皇の出現をみた日本ですが明治の皇室典範において女性が天皇になることは明確に否定されました。なぜそうなったのでしょうか。細かな理由はいろいろあったのでしょうが基本、欧化思想の影響と考えます。なぜならば、アジア初の近代憲法とされる明治憲法はプロイセン憲法を参考にし、その影響をうけているというのが広く知られている事実であり、総理大臣兼宮内大臣の伊藤博文が主導した明治の皇室典範もまた(女性の王位継承を認めない)プロイセンの制度を参考にしたと考えられます。

 歴史学者三谷博氏が指摘するように、明治維新の「維新」とは「御一新(ごいっしん)」の当て字でありましたが、明治政府は可能な限りすべてを西洋化しようとしました。この欧化運動を経た結果として現在のわれわれがいるわけで、当時の、西洋に倣ったこと自体の良し悪しをいまさら問題にしてもしょうがありません。

 しかし長い日本の歴史からいえばつい最近のことがらであるとはいえ、100年・150年を経ると、西洋由来のことがらも日本古来ゆかりのことがらも頭の中で混在融合してしまい、見極めをミスる現象がときおり発生します。

 例えば、「戦前の男尊女卑的な家長制度は江戸時代以来の儒教の影響だ」と長らく常識のように語られてきましたが、いろいろ調べると、実はフランス民法などヨーロッパの家父長制の影響のためであったことが判ってきました。男尊女卑は江戸時代よりも明治時代のほうがより強化されたわけです。

 このような錯覚、近代になってから受けたヨーロッパからの影響を知らず知らずののうちに日本の旧来のものとして受け入れてしまう感性上の錯覚が皇位継承をめぐっても起こっているように思えます。この錯覚の持ち主を仮に「プロイセン頭」と呼ぶとして、そのプロイセン頭で過去の歴史を振り返ってみて、「男系の天皇の系譜がこんなに続いて来たんだ、これが日本なのだ」という発見にいたり、これをとても価値あるものと考え、やおら固守しようとしているのではないでしょうか。一種の歴史認識における錯視になりますが、そうと考えなければ、「世界最古の長編小説(源氏物語)を生み出した日本という国をなぜ誇りに思わないのか!」と檄をとばしながら、その一方で「女性天皇は女系天皇につながるから断固反対」などと(因果関係を考えれば)支離滅裂な言動を展開する人々のことを説明できないのではないでしょうか。

 何が日本の特徴で、何が西洋の影響なのか、改めて冷静に考え直す必要があります。

 とりあえず、ひとこと言わせてもらいます。「女性天皇を拒むような日本は本物の日本といえるのか」と。