2013年11月1日金曜日

キムチは日本と半島との間でのやり取りの中で生まれてきた食品

ユネスコ無形文化遺産保護条約政府間委員会の補助機関による勧告が発表され「和食;日本人の伝統的な食文化」や韓国のキムチが推薦をうけた。
韓国側の報道ではたとえば次のような記述をみた。

ユネスコはキムチが韓国に数百年間伝わる食べ物というだけでなく、韓民族のアイデンティティを形成してきた重要な文化的資産だということに注目した。
中央日報 2013年10月24日


キムチの語彙の違い
キムチの語彙が日本と韓国では異なるようだ。日本語の中では”漬物”というジャンルの一部として”キムチ”という韓国式漬物のジャンルがあり、唐辛子の入っていないものはキムチといわないが、現在の韓国では漬物全体をキムチという。
野菜の塩水漬け、すなわち漬物は韓国の新聞が言うように数百年前、あるいはそれ以前からあるだろうが、日本語でいう、(辛い漬物)キムチも「キムチ」という言葉も、かなり”若い”文化であることを知っているだろうか?
農文協 刊「世界の食文化_韓国」(朝倉敏夫)によれば
典型的なキムチ、赤い色がつくほど唐辛子たっぷりの白菜の漬物、この食品が半島で広く食べられるようになったのはここ数十年の歴史とのこと

「キムチ」の語源と日本の史料
じつは、この辛い漬物と「キムチ」という言葉は日本と半島との間のやりとりの中で生まれたと考えるべき理由がある。
 以前、日韓交流サイトで韓国側から「キムチは日本発祥の食べ物でしょうか?」と質問されたことがった。そのときはなぜこのようなことを日本人に聞くのだろうかと疑問に思ったものだった
後で、キムチの起源について韓国人に確信がないこと。そしてそれには理由があることを知った。朝鮮では昔から漬物を「沈菜」”チムチェ”と言っていた。このチムチェがいつのころか”キムチ”に変わったのだ。
そしてこの理由もいきさつも韓国人は知らないのだ。

結論から言うとこれには日本人と日本語が介在している。江戸時代、日本において朝鮮と交流していた対馬藩が通信使などに対してもてなし用の朝鮮料理を出すことがあり、レシピが残っているが、「チムチェ」を「きみすい」と記録していた。
「野菜が水に沈んだ状態にあるため、朝鮮では漬物のことを「沈菜」”チムチェ”といい、(釜山にあった対馬藩の役館)倭館の人はなまってこれを「きみすい」と呼ぶ、今にいう『キムチ』の語源である。」
ゆまに書房 田代和生「新倭館」

注目すべき記録である。
ここでいくつかの疑問がのこる。まず①なぜ対馬藩は「きみすい」と記録したのか?②なぜ半島人は「チムチェ」という言葉を使い続けなかったのか? などの疑問である。 ①に関しては日本人の聞き間違い、日本語ナマリというのが通説のようだ。 私は別の可能性もあると思っている。
日本にはうなぎの内臓を調理した「肝吸い」という食品があるが、朝鮮人のチムチェの食し方が日本人の目には吸い物を啜るのに似て見えたのではないか、という可能性である。チムチェは要するに野菜の塩水漬けだが、日本の漬物が漬け汁を絞ってから、盛り付けるのに対して、朝鮮のチムチェは漬け汁ごと食膳に提供され、朝鮮の両班は日本人が汁物、吸い物を啜るのと同様に、漬け汁を啜っていたのだ。

半島人はなぜ名前を変えたのか次の疑問、なぜ半島人は「チムチェ」という言葉を変えたのか、という点。
私の考えを述べる。
対馬班が朝鮮料理のつもりで提供した”きみすい”には大量にではなかったが、唐辛子が入っていた。その頃のチムチェにも量は少なかったが唐辛子が入っていたはずである。 秀吉の頃半島に渡った唐辛子は日本語では”南蛮”だが朝鮮側では「倭芥子」”日本のからし”と呼んでいた。

唐辛子はだんだんに半島人が愛用する食べ物になっていったが、日本側が朝鮮料理のつもりで提供した「キミスイ」という漬物を、唐辛子が入っているがゆえに、朝鮮人は「チムチェ」とは別の日本の食品と誤解したのではないだろうか?

このような誤解は、例えば近年、日本の料理である焼肉を、一時期日本人自身が韓国の料理と誤解したことなどを参考すれば理解できる。 
日本側の“きみすい”という言葉を半島人が使用しだしてその韓国なまりが“キムチ”となった、と考えると「チムチェ」が「キムチ」になった理由がうまく説明できる。

唐辛子を大量に使いだした時期、そして半島人が「チムチェ」という言葉を使わなくなった時期はいつごろだろうか。 おそらく19世紀の末か20世紀の初めごろではなかろうか。

いずれにもせよ、キムチは日本と半島との間でのやり取りの中で生まれてきた食品である、とはいえるであろう。

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