刺激的な主張
「中国化する日本-日中文明の衝突千年史」は2,3年前に出版され大きな注目を浴びた本だ。著者は與那覇 潤氏。 タイトルも刺激的だが内容はもっと大胆で、ときどき挑発的だとさえ感じられる。
(日本の)社会の体質、風潮を「中国化」と「江戸時代化」とに分けて、評価することが特徴だ。この「中国化」の範型がはるか昔の宋朝にあるという主張からもわかるように、かなり大雑把だ。
世襲制度が大幅に後退した宋時代の中国を”近代”の始まりという説は、與那覇 氏のオリジナルではないらしい。一瞬それもありかなと思うがなんとなく悩ましい。
最近の歴史学者は専門分野の細分化が進み、全体を総合しようとすることが避けられているのかもしれない。さらに「”大きな物語”は消滅した」とされていたりして、長期的なパラダイムを描こうとすると思弁的に過ぎて、感覚としては不確かなものになっていくようだ。
その中で、與那覇 氏の言説はスケール感を感じさせるのみならず最近の数十年間の日本社会の変化をつかみ出そうという意識が明確で現実感がある。
問題ありと感じる理由
いろいろな点で示唆に富むとはいえ、しかし、以下に指摘する、どうしても同意できない点を感じる。
それもあって、結論からいえば、宋時代の中国を”近代”の始まりという主張も「近代化」=「中国化」という主張も違うのではないかと思う。
ひとつの問題は「近代」とはなにかということであり、定義が違えば、そもそも議論がかみ合わない道理だ。
自分としては、科学的発見や技術の進歩を基礎とし、これによってもたらされた国際関係の変化、産業構造の変化、さらに政治体制や社会的価値観の革新として現出したものが「近代」であり、その逆ではないと考える。
政治体制や社会的価値観(例えば、議会制民主主義や基本的人権の絶対視)が科学的発見をもたらしたわけでもないし、産業技術の進歩を招来したとも思えない。
「中国化する日本」には科学的発見や技術の進歩に関する考察がほとんど見られない。
ところで、どうしても同意できない点というのは何かといえば、日本の江戸時代(前近代)と同時期の中国や朝鮮の(日本と比較しての)後進性を與那覇 氏は無視していることである。
後進性の第一は度が過ぎた女性蔑視であり、第二は低い識字率である。
女の社会的存在が無視されていた朝鮮の状況に関してはこのブログの以前の記事でもいくつか言及しているが「どこが”近代”なのか」と言いたい気持ちだ。
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