5 江戸時代の二国間関係
大変残念なことに、半島で生まれた、この図式と言説は19世紀末まで、対日関係の大きな制約として続いた。先にあげた書記文化についていえば、科挙の制度はこの間、朝鮮において牢固とした体制となり、党派を生み出すものとなったが、他方で(漢詩・漢文の能力=特権)の伝統原理を相対化する潜在的な脅威もまた存続した。ハングルは公的な場から追放されたものの、一定程度浸透し、隣国日本においても朝鮮とは異質な書記文化は隆盛を誇っていた。
この間に、日本を野蛮とする教義を増大させる出来事もあれば、減少に向かわせる出来事もあった。
増大させる要因として ①16世紀末の秀吉による朝鮮侵攻、②後金(清)による朝鮮侵攻と後の属国支配(これを契機とする朝鮮の小中華思想)
減少に向かわせる要因としては ①豊臣政権の滅亡、②半島に侵攻した後金軍に対抗する、対馬藩や徳川幕府の朝鮮への援軍の申し入れ、軍事物資の支援、③通信使の儀礼外交の復活、④釜山の倭館を通じた貿易の安定化
等があげられるだろう。
結論から言えば、蛮夷として蔑視すべきもの=日本という原理は強化されることはあってもその逆はなかった。日本にきた通信使たちは、公式には言わないもの、例えば松平姓の者同士の結婚など(同姓婚)を禁止しない日本人を、「ケダモノと変わらない」、とののしったり、男女が往来で立ち話などしていたら「淫らな国俗」であると、いちいち蔑んでいた。
室町時代の通信使(世宗の通信使)の時代は、お互いの使臣は国都を互いに往来していて、漢城(ソウル)には訪問する日本人専用の宿泊施設(倭館)もあったのだが、江戸時代においては善隣外交を唱えながらも、幕府側からの使者は釜山どまりであって、漢城への通行は拒否されていた。
6 茶番劇となってしまった通信使
日本蔑視が外交儀礼の場に露出してしまい、事件となったのが正徳年間の通信使であろう。徳川六代将軍家宣の襲位を祝賀するための通信使の大行列は、これを描いた絵画も多く、華やかな記録として残っている。
しかし、一行の壮大な江戸往来は結果からいえば、まったくの茶番劇に終わってしまった。問題はこの時の朝鮮国王からの国書の中に「光」という文字が使われていたことであった。これは家宣の祖父の「家光」の名前と文字がかぶっている。
中国など伝統的な漢字圏では王の本名(諱)をどのような文書であれ使うこと(犯諱)は絶対のタブーとされていた。日本には犯諱の禁はないが、名前は大事なもので例えば主君と同じ字を自分や子弟の名前に許しもなく使用するのは控えるという風があった。
中国や朝鮮での犯諱の制は王と臣民との間のもので、臣下同士の間で相手の諱を呼ぶことは、犯罪とはいえないが、非礼なこととされ忌避された。
国書の文言というものは慶祝的な意味をもった数行の短いもので、毎回同じ内容であっても差支えないものである。形式的な礼儀をまもることさえしておけばよい。したがって、朝鮮側国書に盛り込まれたこの文字は偶然とはとても考えられない。彼らは意図的に”犯諱”類似行為をおこなったのである。
この時、日本と朝鮮の間には、対立するような何か特別な事情があったというわけではない。しかし外交を担当した将軍の近臣新井白石は、両国の文明対等の原則を確認する意味合いもあったと思われるが、江戸時代の国書における将軍の呼称が「日本国大君」であったのを室町時代の国書に使われていた「日本国王」に変更し、また冗費削減のために、物見遊山にすぎない通信使の日光参観をやめることを事前に通知し、了解をえていた。
公式に異議を唱えないものの、これに対する、不快感の暗黙の表明が朝鮮側の犯諱行為であったと思われる。将軍家宣と白石は朝鮮国書中の文字を見て、瞬時にその底意を理解し顔色が変わったはずである。
じつは、家宣は事前に、通過する諸国に、通信使一行の応接にあたっては親切な配慮をするように繰り返し指示を与えていた。彼は朝鮮側に存在する日本蔑視の因習を認識した上で、日本に対する評価を変えさせようと希望していた。更にその延長上には半島を通して清国と国交を開くことを願望していたのかもしれない。
過去、家康は朝鮮を通じて明国と講和することを追求していたし、家光による朝鮮への援軍派遣の申し入れも、本心はこれを潮に明国との講和を展望していたものであった。
しかし、朝鮮国書の犯諱によって、彼の準備は無意味であったことを悟らされたわけである。
犯諱の禁がない日本としては朝鮮からの国書を受け取らざるをえない。しかし、白石はこのような「礼」には同等の「礼」をもって応えた。家宣から朝鮮国王あての返書の文中に朝鮮王七世の祖である中宗の諱の「懌」の字を盛り込んだ。
通信使の趙泰億はここに至って、この返書の受け取りを拒絶し、日本側に書き直しを強く要求した。その際、白石と趙泰億のあいだで、従来の外交儀礼や両国の過去の歴史関係に関する議論が行われることとなった。
そのような応酬の後に、(問題がある文字を含む)、双方の国書を破棄し、あらためて国書の交換をやり直すことで決着をみた。
二度目の(本物の)国書の交換は、大規模な行列を仕立てることはせず、対馬において事務的に行われた。正徳度の、膨大な経費を費やした、華麗な通信使の道中は以上のような経緯をたどり、最優先の目的が無効となったため、結論的には虚構のイベントに終わってしまったというのが真相である。
通信使の往来はその後も百年間つづいた。江戸往来が三回、対馬往来が一回行われたが、表層での儀礼と内面での拒絶という本質は変わらなかった。
対等外交の原理を貫いた白石に対しては、事なかれ主義の重臣達からの批判の声が多かった。その覚悟はもとよりあったはずで、彼は事が収まったのちに、進退伺を出した。これに対して家宣は、逆に通信使の応接を白石の功として、禄高を千石に倍増したのである。