2017年6月11日日曜日

最も意味の大きな往来はいつの時代か_朝鮮通信使の歴史(1/4)


 

1 入京を拒否された通信使


朝鮮の第四代国王世宗が日本に送った3回目の通信使は1443年5月末~6月にかけて、兵庫に上陸し京都に向かった。

 この時の通信使に関して、中原康富の日記『康富記』には興味深い記述がある。なんと、室町幕府は一行の入京を拒否し、この儀礼外交をなんとか止めさせようと苦心していたのである。幕府は政治的な不安定と財政難に苦しんでいた。


この時期の京都は南北朝合体以来の動揺期であった。嘉吉の変、嘉吉の土一揆と徳政令と続き、幕府の財政は破たんしていた。室町幕府には外交を展開する意思も余裕もなく巨額の出費をともなう儀礼外交をなんとか避けようとした。


「康富記」には次のように書かれている。通信使の一行に対して幕府は「新将軍はまだ幼く、諸大名も(恥ずかしながら)現在は外交儀礼のための多額の費用を捻出することが出来ない、京都に来てもらっても無益である(原文・室町殿御幼稚時分也、諸大名国役已下要脚無沙汰之時節也、旁為無益歟)」と申し渡した。兵庫の津での交易を行った後、そのまま帰ってもらいたい、という機関決定を伝えたのである。

しかしこの通知に対して通信使の側は「すべて前例にのっとって行ってもらいたい」と強硬に主張し、結局京都での外交儀礼を実行させた。

通常、国書を携えての平時の王使の往来にあたっては、事前に通告し相手の了解を得たうえで派遣するものであろう。しかし、この時の通信使(世宗が日本に送った7回目の王使)は合意に基づいて出発した形跡がない。幕府財政が崩壊の際にあること、歓迎されざる客であること、それらを百も承知の上で日本に向かったのである。

じつはこの時の通信使には秘めたる重要な目的があり、何が何でも日本の国都にゆかねばならない事情があった。まさに同時期、世宗とその世子が力を入れていたのは朝鮮の独自の国字(ハングル)の創製プロジェクトであった。大詰めに差し掛かっていたこの計画の中核を担っていた若手の官僚が一行の序列3位である書状官として日本に派遣されていた。その人物とは後に朝鮮初期を代表する文人政治家となる申叔舟(当時二五歳)である。

2 ハングルの創製と日本の書記文化

半島では千年以上にわたって漢字のみを使用していた。新たに朝鮮語に即して独自の発音記号を作り、使う、という目的のためには、(漢字に加えて)独自の国字を使った書記文化の蓄積を持っていた、当時ほとんど唯一の国、日本に学ぶことは多かったはずである。

新たな文字を定義し、普及しなければならない立場となれば、例えば

  1.  どのようにして一般大衆に識字教育をおこなっていけるのか?そのコストは?
  2.  公式文書、契約関係の文書、その他における漢字かな混用文の利用範囲と実態。日本の書記文化の代表的な資料の歴史的背景とその収集。
  3.  かつての仮名文字作成を正当化する何らかのイデオロギーの有無。反対活動の有無。
  4.  庶民が文字を使用することによる悪影響の有無。
    などを日本の中心部において、確認する必要を感じていたであろう。二十数年後に叔舟が編纂した『海東諸国紀』に「日本では男女の区別なく、みな、その国字を習う(原文・無男女皆習其國字)」とあるように、彼にはわが国の書記文化に対する十分な認識があった。この時の通信使の派遣はハングル創製のための必須の工程として位置づけられていたのである。
    しかし、幕府を運営する側としてみれば財政的に傷口に塩をなすられる思いであったろうから、友好的な雰囲気であったとは想像し難い。世宗の直命があったとはいえ、遠く波濤を越え、あるいは生命の危険をも冒して京都を目指した通信使一行の使命感の強さと切迫感を、我々は思い浮かべるべきかもしれない。
    現代の半島ではハングルへの評価はきわめて高く、そのため世宗は二十七人の朝鮮王の中の代表的な存在とされ、五百年にも及ぶ歴史の中で傑出した尊崇をうけている。紙幣の肖像にとどまらず、その名を冠した都市、施設、艦船、組織などをただちにあげることができるほどだ。
    一方、見方を変えるならば、日本は意図しないながらも、半島でのハングルの作製に大きな寄与をしていたということも可能である。
    日本と韓国の文化の往来という面から通信使の歴史を振り返ってみるとき、この場面はある意味で最も大きな地位を占めるかもしれない。
    現在、日本と韓国の有志が共同で通信使関係の記録をユネスコ世界記憶遺産への共同申請中である。
    ところが、仄聞するところでは、先の『康富記』など、室町時代の記録は一切除外されているという。これは全く意外なことだ。世界の歴史の中でも、日本と半島との関係の長さは注目されてよいが、文化的な交流・影響、その劇的な結果という点で、世宗の第3回の通信使ほど重要な意味を帯びているものは無いように考えられる。関係者の再考を切にお願いしたいところだ。

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