2017年6月11日日曜日

軋轢と日本蔑視はなぜ生じたのか_朝鮮通信使の歴史(2/4)


3 日本=夷狄論の発生

ハングル(当時は諺文といった)の創作は大きなコストが予想され、成否は不明であった。しかしうまくいけば朝鮮の書記文化の画期を成し大きな影響をもたらす可能性があった。それとともに、他方ではこれに反発する動きも大きかった。

第3回通信使が還った二カ月後の1443年の12月、『訓民正音』(ハングルの定義本)が出来上った。その翌年2月、この諺文作成に反対する陣営を代表し、集賢殿副提学・崔万里が世宗に対して正面から批判する長文の意見書を提出した。朝鮮の頭脳を集めたといわれ、申叔舟も所属していた集賢殿は二つに割れたのである。

彼らはさまざまな角度から反対の論陣を張ったが、日本人として注目すべきは反対上疏文の中の次の箇所であろう。

蒙古・西夏・女真・日本・西蕃などだけはそれぞれも字を持っていますが、これらはみな未開人の所業であり、言うに足りるものではありません--東洋文庫『訓民正音』(原文・別為文字者唯蒙古西夏女眞日本西蕃之類各有其字是皆夷狄事耳無足道者傅曰用夏變夷未聞變於夷者也)」

中華によって夷狄が感化されることはあっても、その逆はけっしてあってはならない。夷狄(蛮族)である日本の真似をしてはいけない、と主張している。

ここで朝鮮の文人たちがハングルに強く反発した動機の深層を考えてみたい。人類の文字の歴史は5千年とされるが、一般庶民が識字能力を持つようになったのはごく最近のことだ。古代のエジプトの神官やヨーロッパ中世の僧侶など例外的な一部の人間が書記文化を独占し特権的な地位を保っていた期間の方がはるかに長かった。

学習に多くの時間を要する漢字の使用圏では「識字能力=特権」の社会文化が特に強かった。中国や朝鮮で長く続いた科挙の制度はこれを背景としたもので、少数の読書人階層と多数の文盲階層との間の段差を大きくし特権の根拠を強め、絶望的に急峻な階梯の頂点に皇帝を置き、社会の安定をはかったものといえる。

この時代の朝鮮は、漢詩、漢文の能力によって官吏を撰ぶ科挙を通過したものが朝廷の主流になりつつあった。ここにきて新しい表音文字が出現し、識字人口が増え、科挙の制による特権の根拠を弱めることをきらったと考えるべきであろう。

それと同時に隣国日本に対する見方が変化することとなった。表音文字が広く利用され、科挙の制がなく、書記文化に、身分制度を保証する役目が乏しいのが日本である。しかしながら、王家が長く続いている。いわば、中国・朝鮮では原理ともいえる科挙の制にたいする一種のアンチテーゼともいえる存在である。そのような日本のすがたを意識させられたとき、ハングル反対派を筆頭に、警戒心と反感が新たに生まれてしまった。

4 本来の世宗の日本観

もともと朝鮮の人士は日本を野蛮な国とは考えていなかった。これに関しては世宗の重要な発言が参考になる。第1回目の通信使(彼が日本に派遣した4回目の王使)の出発の数か月前(1428年)、群臣の前で彼はその目的を次のように宣言した。

 「日本には百篇の尚書があると聞いた、通信使に購入させる必要がある。また日本の紙はしゃきっとして強い。この技術はなんとしても習らってこなければならない(原文・聞日本國有百篇尚書可令通信使購來且倭紙堅靭造作之法亦宜傅習《世宗実録 巻四十一》)」

尚書とは書経のことで、信憑性があると言われる今文尚書は二十八編であるが、もともとは百篇であるというひとつの伝承があった。日本は歴史の古い国だから、太古の文物が残っていても不思議ではないという感覚があったものであろう。

また世宗は日本の紙製品を実際に手に取っていて、その質に魅了されていたことがわかる。名目は別として本音の部分では、日本の造紙の技術習得が、通信使外交開始の最大の目的であることは明らかである。

世宗実録をみると、彼は第1回通信使の派遣の後も対馬に人を派遣して「倭楮」をもってこさせるなど、たびたび造紙のための直命を発している。

(そのような世宗の執着のおかげで、この後朝鮮の紙(韓紙)は国際的にも高評価を得るようになっていく。)

もとからあった、そのような日本観を大幅に変えて、朝鮮を中華(文明国)とし日本を夷狄(非文明国)とした図式はけっして、皮膚感覚から来たものではなく、自然発生的なものではない。これを変えさせたものは、科挙の制度を護持しようとした、文人階級の危機感であった。

日本夷狄観は崔万里たちハングル反対派の”理論武装”の一環として、日本と向き合うときの、大原則とされたのである。

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