本日は2019年6月26日だが、じつは、きっちり600年前の1419年6月に対馬で朝鮮と日本との戦いが行われていた。
日本の歴史では「応永の外寇」とよばれている。
「応永26年李氏朝鮮の大軍が対馬を侵略した事件。日本の海賊集団倭寇に悩まされ、その根拠地とみて来襲したものとされる」(広辞苑)というように理解されている。
旧暦、6月26日は、兵船227艘、総計1万7258人を率いた大将・李従茂が仁位郡に上陸した日となっている。
日本と半島の歴史のなかには、いくつかの大規模な武力衝突、戦闘の歴史があった。白村江、元寇、秀吉の侵攻などは広く知られているが、「応永の外寇」は朝鮮が単独・自力で日本に侵攻した唯一の例とされている(広開土王碑文を恣意的に読んだ一部の学者の妄想を除く)。
そういう意味ではもっと広く知られていてもよい。
これまで、それほど詳しく調べてはこなかったものの、「応永の外寇」は、おかしなことが多く、もともと、かなり怪しいと思ってきた。
以下の疑問点は岩波文庫「老松堂日本行録」(宋希璟著、村井章介校注)、吉川弘文館「朝鮮人のみた中世日本」(関周一)、その他を参考にしたもの。
1 決断が速すぎ、準備期間が短すぎる
倭船50余艘が、忠清道庇仁県の都豆音串を襲い乱暴を働いたのが1419年5月某日
5月14日に対馬への出兵が決定された。
6月12日に1万7258人の兵員と糧秣を載せた兵船227艘(京畿、忠清道、全羅道、各地から動員された)が乃而浦(ネイポ)に集結
公式記録ではこうなっているものの、このような短期間で、大軍動員の準備と実行が果たして可能だろうか。
2 倭寇問題が本質であるなら、室町幕府や九州探題、対馬島主との事前交渉がないのは不自然。豆音串を襲った倭寇の根拠地が対馬であるとの確認さえしていない。
倭寇対策はまず、外交交渉で問題の解決を図り、それの実があがらないとき、武力を行使するというのが、それまでの常道であり、実際、それで効果をあげてきていた。
しかも、この時期、室町幕府や九州探題、対馬島主と朝鮮との関係は良好であったにもかかわらず、外交交渉を一切行っていない。
3 隠密作戦のための秘密保持行為が大げさすぎる。
対馬侵攻に先立って、朝鮮全土で倭客〈正規の来訪者〉や居留民に対する、拉致・抑留作戦が一斉に行われた。逃げ切れず、捕まって抑留された日本人は総計591人、死亡者(殺された者、自殺した者)は136人(「世宗実録」)
正式の記録の外に、カウントされていない犠牲者もいたわけで、これらを考えると、本番での対馬での戦闘の死者を越えていると思われる。
(対馬においては114の首級をあげ、21人を捕虜にした「世宗実録」)
倭寇禁圧が目的ならば、大軍での示威をもって降伏を迫るという方法もあったわけで、(本当に倭寇の侵犯が原因であったなら)秘密保持の必要性はそれほど大きくない。
4 引き揚げまでの期間が短すぎる。
6月20日に先遣隊が対馬に上陸。
6月26日に大将・李従茂が上陸
ほどなく停戦し朝鮮軍は撤退。7月3日には巨済島に戻る
この間、戦闘が一回あった程度で、対馬全域を巡回することもせず、撤収が極めて早い。
この早すぎる撤収の理由として、季節風の問題や糧食の問題を挙げるむきもあるが、それにしても早すぎる。
撤収が早いということは、撤収のための決断も早かったことを意味している。もしかすると、一回戦ったら、成果はどうあれ、すぐ引き上げるということが事前に決まっていた可能性もある。
5 抑留者を長期間とどめおいた理由が不明
世宗・太宗による対馬侵攻は数日間で終わったが、拘留された日本人の帰国はなぜか長引いた。1425年に漢城に赴いた日本国王使が摂津の国兵庫の住人四郎三郎は帰国できたが、その夫人と子供がまだ帰国できていない、と談判している。隠密作戦・秘密保持のための日本人拘留であるとしたら、なぜ長期にわたって拘留しつづけたのかは疑問である。
以上のような疑問が残されていることから、「倭寇退治のためであった」という、室町幕府に対する朝鮮王使・宋希璟の釈明(1420年)は、怪しい。怪しすぎると感じられる。
もし、宋希璟の釈明を脇によけるとすると、どのような情景が見えるであろうか。
A 明への朝貢を廃止したことへの報復・懲戒・警告説。
明・朝鮮連合の作戦であったという少弐氏からの報告があり、前年追い返した明の使者(宦官・呂淵)が再度来日して、朝貢をうながしたこともあり、一時は流布した説である。
しかし、当の朝鮮がそれを否定したので、この認識は覆った。
B 太宗の対馬への領土的野心が発揮された侵攻説。
太宗は1419年6月、軍団の出港に先立って、将兵に向けて「対馬はもともと慶林(新羅の王府があったところ)に属していたものである」と激を発した。現地の日本側にも、これは朝鮮が本気で領土拡大を意図した作戦であると理解していたものもいたようだ。
C 明の海禁政策、倭寇対策、他民族排除、への忠誠を示すためのものという可能性
もともと明の太祖・朱元璋は倭寇と半島人、倭寇と李成桂との提携関係を疑っていた。李成桂の後継者である、太宗、世宗と倭寇との関係を明側が怪しんでいたとしても不思議ではない。世宗への冊封を認めてもらう条件として倭寇攻撃がなされた、という可能性もある。
これからも 明の資料などを含めて、より多角的な検討が必要なのではないだろうか。