A 日本での夫婦別姓運動と隣国の知識人の言動
日本では1970年代以降、夫婦別姓制度が発想・提唱されていた。現在の選択的夫婦別姓制度の要求もその運動の延長線上に考えることができる。
その際、夫婦別姓が国際的な潮流であるかような説明もされていた。
そこでは20世紀の朝鮮・中国の特徴的な夫婦別姓の戸籍制度の影響も無視できない。じつは70年代の夫婦別姓運動に関しては以下のような証言がある。
在日朝鮮人—ことに日本のインテリと交流の機会が多い知識人には国粋主義者が多いようだ。たとえばこういう会話が行き交うのにいくたびか出くわしたことがある。
-- 朝鮮の場合、女性は結婚しても苗字が変わらないそうですね。
-- もちろんです。日本の場合、昨日まで田中〇子だったのが、結婚したとたんに亭主の苗字になる。これはいけませんね。正に従属そのものじゃないですか。
-- そうだわよね。女性蔑視の最たるものだわ。朝鮮の女性はなんとすばらしいこと。うらやましいわ。
-- 女権獲得のために大いにがんばることですね。
この羨望のまなざしをこめて問いかけてきたのは、日本の進歩的な女性、ウーマン・パワーのリーダーの一人であった。
かくいう小生もこういう内容のことでいくどか話しかけられたことがある。そのとき私はどう答えたか。
-- いや、実は朝鮮の女は名前さえないのですよ…。
などと正直なことは絶対に言わない。ただニヤニヤ笑ってその場をごまかし、なんとか話題をそらしたりするのだ。
「女には名前がない」とはゆゆしきことだが、すくなくとも族譜の世界に限っては女の名は絶対にないのである。
尹学準「オンドル夜話」(中公新書)p74
初期の夫婦別姓運動に隣国の戸籍制度の存在が大きな影響を与えていたことが感じられると同時に、運動の担い手たちがこの戸籍制度の歴史的な背景、由来について正しい認識を持っていなかったことがわかる。
B 韓国・朝鮮の戸籍制度の由来
朝鮮・中国の夫婦別姓について、日本が関わりをもっていたという事実とその意味を指摘したい。
1. 中国、朝鮮の女性たちは19世紀まで家の中に閉じこもっていることが要求され、白昼往来で男と話をしたりすることは禁止されていた。
2. 同時期、良家の成人女性は自身の名をもつことはなく、嫁ぎ先では符牒として実家の姓や地域名などが名前となっていた。→ *1__
3. 朝鮮では例えば「金」姓の者同士などの婚姻=同姓婚がタブーとされていた。
(「同姓不婚」)
4. 朝鮮では貴人も庶民も、既婚・未婚を問わず、みな妾をもとめ、一夫多妻が常態化していた。→ *2__
5. 日本にきた通信使たちは、公式には言わないもの、例えば松平姓の者同士の結婚(同姓婚)を禁止しない日本人を、「ケダモノと変わらない」、とののしったり、男女が往来で立ち話などしていたら「淫らな国俗」であると、いちいち蔑んでいた。→ *3__
6. 1894年の日清戦争のとき、日本が朝鮮に突きつけた甲午改革の一環として戸籍制度が整備された。これによって女性たちも名前をもつこととなったが、その際、あまりにも強かった上記2.~4.の因習に日本帝国は妥協し、夫婦別姓の戸籍システムとした。そして、朝鮮と同様の社会慣習をもっていた中国も辛亥革命(1911)以降、同様に夫婦別姓の戸籍制度となった。 (伝統的な因習を残す、このような施策を旧慣温存という)
古代の部族間の政治や外交の一つとして、一種の贈り物として婚姻があり、姉妹で同じ男に嫁ぐこともあった。同姓不婚はそのなごりという性格もある。半島における同姓不婚の制はもともと、特別厳格なものではなかったという。しかし、日本人をケダモノと変わらないと罵倒する態度と同期するように時代が下るとより厳しく規制されるようになり、近現代においても頑強に法体系に反映され続けた。この同姓不婚の因習と近代の夫婦別姓は親和性があることはいうまでもない。
同姓不婚が最終的に撤去されたのは、じつに、そろそろ21世を迎えようかという頃である。そのため、古代の遺制ともいえるこのタブーに苦しめられた悲運の同姓カップルは近代の半島においても膨大な数に上ったと思われる。
そして、法律上は差別されないとはいえ、心理的差別はまだまだ残っていて障害となっている。結婚したとしても、夫婦別姓だから、同姓婚であったことは丸判りなのだ。彼らが、日本や他の多くの国の、夫婦同姓の制度をどれほど羨ましく思っているかは察してもあまりあるものがある。
女性の社会的存在をあれほど無視する状況がなければ、本来は韓国も中国も夫婦同姓の家族制度になっていたはずだ。
C 不正確な歴史理解は不幸をよぶことがある
1970年代の夫婦別姓運動の話にもどる。女性の社会的存在の無視や一夫多妻の副産物である隣国の夫婦別姓を、運動家たちはこともあろうに、男女同権であると痛恨の錯覚をしてしまった。
隣国の知識人はその錯覚を正すことなく、むしろ助長さえした。そして内心では(一部の)日本人の無知ぶりを楽しんでいたわけだ。(尹学準氏は別である)
このような両国関係の中では日本人は歴史に関して少しでも不正確な認識をもつと、落とし穴に嵌ってしまいかねない。
今日の選択的夫婦別姓運動についても考え直すべきである。
当人達にしてみれば、男女平等のための運動であり、正義の実践のつもりであろうけれども、離れた場所からみれば別な光景としてとらえられる。
何百年も続いた東アジアのとても残念な歴史と、1970年代におきた喜劇的にも残念な錯誤の痕跡を自らの体に擦り付けているようにも見えるのだ。
D 史料
*1__ (朝鮮の)女には名前がない[とくに年頃の娘には、身近な者以外は名前を呼ぶことができず、また族譜でも、たいていの場合、女は除外されているが、名前がないわけではない]大部分の若い女性は、なんらかの異名をもらい、年長の親戚や一族のものは、彼女が子供のあいだこの異名を呼ぶ。しかし、彼女が結婚適齢期に達すると、両親だけがその名前で呼ぶことができ、一族の誰もが、他人と全く同じように、誰それの娘とか、誰それの姉といった遠まわしの表現する。
結婚後には、この異名もなくなる。たいていの場合、実家の親戚は彼女の嫁入り先の土地の名で、また婚家先の親戚は彼女が嫁に来る前に住んでいた土地の名で表現するのである。・・( )・・
女性が法廷に出頭しなければならない場合、官吏は公判の便宜上、裁判が続行しているあいだに限って、職権で彼女に名前をつける。
・・( )・・
上流階級の社会では、幼い男女は八歳もしくは十歳から席をおなじくしないことが礼儀とされている。・・( )・・まもなく少年たちは内房に足をふみ入れないようになる。逆に娘たちは、内房に閉じ込められ、そこで教育され、読み書きを学ばねばならない。彼女たちは、兄弟たちと遊んではならず、男の目に映るだけでもはしたないことだと教えられる。このようにして彼女たちは、少しずつ意識的にみずからを隠すことに努めるようになる。
ダレ編著 金容権訳「朝鮮事情」(平凡社、東洋文庫_19世紀の宣教師の記録)p212~213
*2__誰彼かまわず妾を求める
夫は、・・・(妾を)養っていけるだけの財力があれば何人囲っても差し支えない。
妾が法律上一人の男の所有物になるには、その男がある娘もしくは寡婦と内縁関係にあるということが証明さえされれば、それでこと足りる。誰も彼から妾を奪うことはできないし、妾の両親でさえ、自分の娘を取り返す権利はない。たとえ妾が逃げ出したとしても、男は妾を力ずくで自分の家に引き戻すことができる。
ダレ編著 金容権訳「朝鮮事情」(平凡社、東洋文庫_19世紀の宣教師の記録)p219
*3__・・( 日本の女たちは)・・あるいは年少の男子のあたまを撫でたり、頬を撫でたりして、人の密集した広い路で相悦しながら、少しも愧じる色がない。
(日本人は)婚姻は同姓を避けることなく、従父兄妹(同祖の兄妹)がたがいに嫁娶(嫁入りと嫁取り)す。兄嫂(兄嫁)や弟妻も寡居(やもめ暮らし)すれは、即ちまた率いて養う。
淫穢の行はすなわち禽獣と同じく、家々では必ず浴室を設けて男女がともに裸で入浴し、白昼からたがいに狎れあう。 申維翰著 姜在彦訳「海游録」(平凡社、東洋文庫_朝鮮通信使の関連記録)p311~312
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