2019年7月24日水曜日

日韓の持続的な関係を保つためには、半島の「ゾンビ」を退治する必要がある


橋下徹氏が、徴用工問題・輸出管理政策でヒートアップする両国の政治と国民感情について自説を展開していました(7月18日放送のAbemaTV)。


橋下氏、徴用工問題めぐる日韓の応酬に「日本と韓国も、僕と百田尚樹さんのようになればいい」

靖国参拝についての彼と百田尚樹氏のやりとりを例として、どのようにひと段落させるのが望ましいかのイメージを述べました。「プライドをかけて激しく言い合って良い。」面と向かって、さんざんに主張し、そのプロセスを実行したうえで、「そこはわかる、だけどな・・・」っていうように、互いの主張を部分的には理解し合う。その後棚上げできる部分は棚上げしたり、休戦したりできればよい、というわけです。

 かつての日中間の尖閣衝突事件のときの中国の戦術(レアアース輸出停止)と日本の対応の事例などをふまえ、今回、韓国側の対策の予測もあり、感情を昂ぶらせず冷徹な分析をベースにした、バランスのとれた見解だと思います。

つまりは、批判、罵倒、激論はいいけど、不信と憎悪を募らせずに、問題をいかに収束させるかということです。これが「本来の喧嘩の仕方」いうものなのでしょう

その主張の説得力は、百田氏や櫻井よしこ氏たちよりもずっと高いものがあります。

しかし、彼もおそらく分かっていると思いますが、けっしてそうはならない。

残念ながら、そうはならない現実がある。

個人対個人の論争では言葉をやり取りするうちに、相互理解という現象も起こりえますが、政府対政府、国対国の場合では、それは難しい。双方が理論武装し、それぞれ「正義」を称するからです。

理論武装の中身としては、法律論もあれば歴史過程への認識もあります。

橋下氏は「日韓併合と植民地支配の歴史がある以上、歴史認識などでは絶対に一致することはない」と述べています。

これまでの通念として、反日感情の源泉は日本帝国による半島支配(日帝三十六年)によって、半島人のプライドを損傷し、抑圧したことが原因であるとされてきました。この点においては彼も朝日新聞などと大差ありません(日本人として向き合わなければならない事柄のひとつです)。

このため、現代の韓国人は、自分たちは日本人よりも倫理面で優れている(逆にいえば、日本人は攻撃的であり、倫理面で韓国人に劣る)、ということをアピールしたい欲求が強い。これが反日の土壌としてある、という理解です。

ところがしかし、2017年6月のブログで述べたように、70年後の現在、日帝時代の体験者世代よりも、後の世代の韓国人の方がむしろ反日欲求が強いことが判っています。この認識だけは、両国の識者が共有しています。

つまり、従来の定説の理解では足りないということです。別な要素があるはずです。

ひとつには教育の問題があるでしょう。日帝時代を知らない世代は、教科書に書かれている日帝収奪論を信じて、実際に当時を生きた人々よりも、強い反日感情を持つという現象が生ずると考えられます。

しかし、日帝収奪論(日本は朝鮮の歴史的文化を破壊し、朝鮮を収奪した)ばかりではなく、日帝が朝鮮を近代化した(日本は朝鮮に多くのものをもたらした)という歴史観も韓国にはあります。問題はなぜ日帝収奪論ばかりが教科書で強調されるのか、という点にあります。(中世にさかのぼれば世宗による通信使の往来は、教科書ではほとんど触れられず、他方、秀吉による侵攻が大きくとりあげられている)。つまり偏向した教科書をつくらせている要因が、さらに別に存在していると考えるべきです。

先のブログの中で、わたしは

ここで文化の面での韓国人の自意識の問題を考えてみたい。国民的文化の歴史性、独自性、連続性についてどのような自画像を持ちうるのか、という点である。近現代はナショナリズムの時代とも言われている。そこではそれぞれのネーションが文化的な自画像を持っていることが暗黙のうちに要請されているのではないのだろうか。

と、国民文化の自意識についてふれました。そしてまた

しかし、韓国の場合はどうであろうか。江戸時代には日本からの文化的な影響を遮断すべく理論武装を徹底したが、それが裏目となって、近代化の決定的な時期に、逆に深部に至るまで日本文化を注入されてしまった。そしてこれは取り返しがきかない。いまさら朝鮮時代にもどって、成人女性の往来通行を禁忌することなどできないのである。

このような経緯があるため、現在の韓国人にとって、国民的文化の歴史性、独自性、連続性についての自画像を描くことは気楽な作業ではない。さらに、第2次大戦後しばらく日本と断絶し、反日のスタンスをとって国家をスタートしたことも困難さを増す要因であろう。現在の韓国の生活文化の中でどれが日本由来であり、どれがそうでないのかを明確にする自信は韓国人にはない。

とも書きました。国民文化に関して韓国人の自意識には脆弱性と問題性がある、とみています。つまり要約すると、

  1. 韓国の現代の文化は日本の文化の亜流、ないしは借り物の性格が大きい。
  2. しかし韓国人は絶対にその現実を受け入れることができない。その為に、日本を「戦犯国家」などと罵ることで心的バランスをとろうとする。これが見過ごされがちな反日の真の要因である。

と言えるのではないでしょうか。

ところで韓国人が「その現実を受け入れることができない」のはなぜかと考えてみると、その理由もいくつかありますが、15世紀に発生し、江戸時代まで続いていた、「日本=夷狄(野蛮人)」という半島の俗説が影響を与えている可能性があります。

朝鮮の文人はことある毎に、自らを文明とし日本を「倭賊、蛮酋」など(非文明)として誹謗してきましたが、そのなごりが今も残っています。昔の朝鮮は江戸時代の日本より「先進的」な文明をもっていたと根拠なく信じたり、ウリジナルと呼ばれる、文化起源を詐称するという現象などです。

このような日本夷狄視は、大昔からあった、とか秀吉の朝鮮出兵によって生じたと信じられていましたが、ほんとうのところは、朝鮮出兵より150年前、通信使の歴史の中で発生した、”書記文明の衝突”によって生じたと考えるべきです。

それは日本の影響によって生まれたハングル(諺文)に対する恐れと反発という種から発生した想像の作物というべきものでした。

数百年後の現在、ハングル自体に対する半島人の評価はすっかり反転し、近代の要請としての国民的文化のアイコンとして重要な地位を占めるに至っています。十五世紀に反対上疏文をまとめ世宗に反抗した崔万里たちは現代の半島人の意識の中では国民的敵役になっています。したがって、本当であれば「日本夷狄論」は半島においてもすでに死滅していななければならないのですが、そうなっていません。日本を「倭賊、蛮酋」とみなす言説の期間が長く続いてきたため、そしてその原因が偽装されてきたため「日本夷狄論」の真の起源がどこにあったのかということが忘れ去られてしまったからです。

つまり、元に戻ると

③なぜ韓国人(朝鮮人)が国民文化の現実を受け入れることができないかといえば、半島にはゾンビが巣くっていて、受け入れを阻害するからだ。そのゾンビとは15世紀の朝鮮通信使の時代に起こった「書記文明の衝突」により生じた、日本を野蛮とみなすという悪癖であり、代々受け継がれてきた社会的遺伝子である、

という結論にいたるわけです。

いま、このような状況においてこそ、このゾンビを退治したいものです。

現代の反日問題解体につながる知見_朝鮮通信使の歴史(4/4)






7 通信使往来の教訓

一四二八年に始まり一八一一年が最後となった通信使とその返礼の使臣の往来の歴史を振り返れば、当初は活発な渡海があった。世宗の時代には各処からの使者や商人たち正規の訪問者(倭客)が年間千人を超える規模でソウルに滞在していたほどである。しかし、やがて軋轢が発生し、長い中断の後は儀礼的でよそよそしい虚飾の事業へと替わっていった。窓口が対馬藩に一本化された交易は安定的であり、釜山は朝鮮第二の都市にまで発展したが、通信使の往来は経費をかけるほどの意味を失って終了に至ったとみることができるだろう。

この歴史から教訓としなければならない点があるとすれば、それは何であろうか。一つは日本における朝鮮への関心の低さ、この国の内実への理解の不足であり、二つ目は朝鮮側における排外性・閉鎖性ではないだろうか。お互いに自分を中心とし、自己を物差しにして狭い視野で相手をみていた。

たとえば、室町将軍・足利義教は明国との国交回復を意図し、通信使を送り出した世宗に対して明との橋渡しを要請した。しかしこれは最初からむなしい要求であった。そもそも明は臣民である朝鮮の独自外交を認めるような体制ではなく、世宗の通信使は明には無断の秘密外交であったからだ。ハングル反対派の崔万里の上疏文の中には、日本との正規の外交を明に知られたらどうするのか、と世宗を脅している箇所があるくらいである。

そして、そのような関係性を日本は知らなかった。日本は、自国内で生起する事柄に心を奪われるあまり、中国・日本・朝鮮それぞれの間の非対称な関係と現実の支配体制に関する認識が不十分であったと思わざるを得ない。

通信使の歴史では末期にあたる18世紀は日本では古学派や古文辞学派など反朱子学的言説が盛り上がった時代である。日本の文人たちの中には通信使の一行の文人に対して経学論争を仕掛けようとしたものがいたが、相手にしてもらえなかった。当時の朝鮮の儒学は実証的なものとはいえず、また「わが国、百世の讎(あだ)」とみなされていた日本の文人と学友になるなどということは危険なことであった。書物を通じて荻生徂徠や太宰春台の説に影響をうけ、日本を高く評価した丁若鏞などの例外もあったが、それは通信使が終わった後のことである。

19世紀、砲艦外交をテコにして門戸開放要求の強風が吹き荒れる時代に、清国の外交官・黄遵憲は、日本に来た朝鮮の高官に対して一つの構想(『朝鮮策略』)を示した。南下政策をとるロシアに対抗し、朝鮮・中国・日本にアメリカを加えた緩やかな連合をつくろうというものである。

日本と中国、朝鮮間には、新たな友好的関係を模索しうる状況が生まれた。朝鮮王はこの構想を検討してはみたが、しかし国内の文人層の伝統的で強固な反日感情のためにそれを具体化できなかった。長く続いた排外性・閉鎖性はのどに刺さったとげのように、朝鮮自身の西洋近代化への志向に対する障害となっていたのである。

 

8 ナショナリズムの要請としての国民の自画像

通信使の時代と異なり、現代のわれわれは半島の国民国家について、はるかに多くの知識と理解をもっているはずである。多くのニュースや生活文化など多方面の情報にも接している。文化的な距離は縮まっている。しかしながらそうはいっても歴史認識問題をはじめとして、言説の分野での衝突・齟齬が時には深刻なレベルに立ち至っているというのが否定できない現実である。この状態を不思議に感じないほうがおかしい。

通信使の歴史の教訓を応用するならば、相手に対する認識の浅さがあるのではないのか、という恐れが生ずる。韓国に関する日本人の知見は、問題解決のためには、実はまだまだ不充分なのではないのか、必要な部分が伏せられたままではないのかという可能性である。

筆者が感じている一例をあげるならば、現代の韓国人には、自分たちは日本人よりも倫理面で優れている(逆にいえば、日本人は攻撃的であり、倫理面で韓国人に劣る)、ということをアピールしたい欲求が強すぎる、という点である。この欲求が慰安婦問題その他の問題の底流に横たわっているように感じられる。

その原因はなんであろうか、これを単純に説明しようとしてもうまくいかない。これまで一般的には、日本帝国による半島支配(日帝三十六年)によって、半島人のプライドを損傷し、抑圧したことが原因であるとされてきた。日本人として向き合わなければならない事柄である。

ところが、70年後の現在、日帝時代の体験者世代よりも、後の世代の韓国人の方がむしろ反日欲求が強いことが明らかになり、従来の定説の理解では足りないことが判ってきた。多角的な視点が必要となった。

ここで文化の面での韓国人の自意識の問題を考えてみたい。国民的文化の歴史性、独自性、連続性についてどのような自画像を持ちうるのか、という点である。近現代はナショナリズムの時代とも言われている。そこではそれぞれのネーションが文化的な自画像を持っていることが暗黙のうちに要請されているのではないのだろうか。

現在の日本人は幸か不幸か、文化的な自画像を持つことに苦労はない。例えば、明治以前からジャポニスムとして一部の文化がヨーロッパに影響を与えたことなどもありアイデンティティの不安というような問題はない。西洋近代化の時代には費用をかけて各国から講師を招聘し、急速に多くを学んだが、感謝こそすれこの事実を否定しなければならない必要性はない。

しかし、韓国の場合はどうであろうか。江戸時代には日本からの文化的な影響を遮断すべく理論武装を徹底したが、それが裏目となって、近代化の決定的な時期に、逆に深部に至るまで日本文化を注入されてしまった。そしてこれは取り返しがきかない。いまさら朝鮮時代にもどって、成人女性の往来通行を禁忌することなどできないのである。

このような経緯があるため、現在の韓国人にとって、国民的文化の歴史性、独自性、連続性についての自画像を描くことは気楽な作業ではない。さらに、第2次大戦後しばらく日本と断絶し、反日のスタンスをとって国家をスタートしたことも困難さを増す要因であろう。現在の韓国の生活文化の中でどれが日本由来であり、どれがそうでないのかを明確にする自信は韓国人にはない。

 韓国は、70年代~90年代、経済面の急速な発展と同期して日本との往来が活発になるとともに、あれもそうだったかこれもそうかと若者が日本起源の事柄を発見することがあった。日本に対抗して経済強国として名誉ある地位を占めたいと願う韓国人にとって、独自性、連続性のある国民文化を想像することは「近代の要請」として強く意識されるとともに、混乱や苦痛を伴うことでもあった。ここにおいて、倫理面での日本の劣位を想像することは自己防御的な一種の代償行為といえるのではなかろうか。

韓国の文学者ジョ・ヨンイルは次のように言う。

 日本文化に対するとき、韓国人はある既視感(ノスタルジー)に捕らわれます。この錯覚がおこるのは、韓国の近代文化の基層にある日本文化のためです。(略)

韓国人は文化的な面では「容易に」日本人に感嘆するけれども、倫理的な面では「容易に」批判を並べ立てる傾向がある。このような二重の態度は基本的に表現者のアイデンティティを混乱させ・・・

               (ジョ・ヨンイル著「世界文学の構造」2011年)

このような状況を日本人は知らないかあるいは極めて鈍感である。その理由は、文化的な自画像を持つことの困難さを経験していない(あるいは忘れた)国民が我々であることによる。世界的にはむしろ少数派であろう。

このことははたして長所といえるのであろうか、そうともいえない。自己を物差しにして狭い視野で相手をみてしまえば、口当たりはよく、見栄えもよいが真実ではない論理にとらわれてしまう場合がある。つまり間違うのである。

この意味において日本人はまだまだ反省が足りない。

 

9 日本夷狄観の虚構は除かれるべき

 先にも述べたが韓国人の反日を理解するためには多角的な評価をすることが必要である。文化的な自画像を持つことの韓国の苦しみが原因というのはそのひとつにすぎない。

たとえば、政治的な出来事や政治家の言動のつらなり・連鎖の中にその原因を見出す説もあるだろう。一般論だが、平和・友好・人道主義など美辞麗句のレトリックに隠された、政治システムの運動メカニズムの秘密は暴かれるべきである。

また、朝鮮時代の朋党の争いのときの思考の文法、「衛正斥邪」の論理の残滓を一因と考えることも可能だろう。政治的な優位性を追求し、一度でも優位性を獲得したなら、相手を悪としてとことん排除し、それを美化するやり方である。世の中には善と悪としかないという、それだけ聞けば、倫理的で正義的なのだが、善の実践のためなら事実の歪曲も許されるという傾向のある、問題のある文化なのである。いずれにもせよ、多角的な分析と対話が必要だ。


この小論で指摘した事柄の一つは、朝鮮を文明とし、日本を非文明とした言説は、通説とされる、秀吉の朝鮮出兵によって決定づけられたのではなく、朝鮮出兵より150年前、通信使の歴史の中で発生した、”書記文明の衝突”によって生じたということである。

このことを知る日本人は少なく、韓国人においてはなおさらである。伏せられてきた歴史といってよいのではないであろうか。このことが両国において広く認識されれば何かが少しは変わるのではあるまいか。例えば、半島においてあまりに長くあった日本夷狄視の文化に対する評価も変化するのではあるまいか。

もし、韓国人自身が朝鮮時代の日本夷狄視を恥ずることがあれば、それは日本人にとってよいことであると同時に韓国人にとってもよいことであるだろう。

なぜならば、文化的な自画像形成における痛みから解放され、新しく独自文化の創製に向かうことが容易となる可能性が高いからである。

 

2019年6月26日水曜日

「応永の外寇」は怪しい


本日は2019年6月26日だが、じつは、きっちり600年前の1419年6月に対馬で朝鮮と日本との戦いが行われていた。

日本の歴史では「応永の外寇」とよばれている。

「応永26年李氏朝鮮の大軍が対馬を侵略した事件。日本の海賊集団倭寇に悩まされ、その根拠地とみて来襲したものとされる」(広辞苑)というように理解されている。

 

旧暦、6月26日は、兵船227艘、総計1万7258人を率いた大将・李従茂が仁位郡に上陸した日となっている。

 

日本と半島の歴史のなかには、いくつかの大規模な武力衝突、戦闘の歴史があった。白村江、元寇、秀吉の侵攻などは広く知られているが、「応永の外寇」は朝鮮が単独・自力で日本に侵攻した唯一の例とされている(広開土王碑文を恣意的に読んだ一部の学者の妄想を除く)。

そういう意味ではもっと広く知られていてもよい。

 

これまで、それほど詳しく調べてはこなかったものの、「応永の外寇」は、おかしなことが多く、もともと、かなり怪しいと思ってきた。

以下の疑問点は岩波文庫「老松堂日本行録」(宋希璟著、村井章介校注)、吉川弘文館「朝鮮人のみた中世日本」(関周一)、その他を参考にしたもの。

 

1 決断が速すぎ、準備期間が短すぎる

倭船50余艘が、忠清道庇仁県の都豆音串を襲い乱暴を働いたのが1419年5月某日

5月14日に対馬への出兵が決定された。

6月12日に1万7258人の兵員と糧秣を載せた兵船227艘(京畿、忠清道、全羅道、各地から動員された)が乃而浦(ネイポ)に集結

 公式記録ではこうなっているものの、このような短期間で、大軍動員の準備と実行が果たして可能だろうか。
   

2 倭寇問題が本質であるなら、室町幕府や九州探題、対馬島主との事前交渉がないのは不自然。豆音串を襲った倭寇の根拠地が対馬であるとの確認さえしていない。

 倭寇対策はまず、外交交渉で問題の解決を図り、それの実があがらないとき、武力を行使するというのが、それまでの常道であり、実際、それで効果をあげてきていた。

 しかも、この時期、室町幕府や九州探題、対馬島主と朝鮮との関係は良好であったにもかかわらず、外交交渉を一切行っていない。


3 隠密作戦のための秘密保持行為が大げさすぎる。

 対馬侵攻に先立って、朝鮮全土で倭客〈正規の来訪者〉や居留民に対する、拉致・抑留作戦が一斉に行われた。逃げ切れず、捕まって抑留された日本人は総計591人、死亡者(殺された者、自殺した者)は136人(「世宗実録」)

 正式の記録の外に、カウントされていない犠牲者もいたわけで、これらを考えると、本番での対馬での戦闘の死者を越えていると思われる。

(対馬においては114の首級をあげ、21人を捕虜にした「世宗実録」)

倭寇禁圧が目的ならば、大軍での示威をもって降伏を迫るという方法もあったわけで、(本当に倭寇の侵犯が原因であったなら)秘密保持の必要性はそれほど大きくない。


4 引き揚げまでの期間が短すぎる。

6月20日に先遣隊が対馬に上陸。

6月26日に大将・李従茂が上陸

ほどなく停戦し朝鮮軍は撤退。7月3日には巨済島に戻る

この間、戦闘が一回あった程度で、対馬全域を巡回することもせず、撤収が極めて早い。

この早すぎる撤収の理由として、季節風の問題や糧食の問題を挙げるむきもあるが、それにしても早すぎる。

撤収が早いということは、撤収のための決断も早かったことを意味している。もしかすると、一回戦ったら、成果はどうあれ、すぐ引き上げるということが事前に決まっていた可能性もある。


5 抑留者を長期間とどめおいた理由が不明

世宗・太宗による対馬侵攻は数日間で終わったが、拘留された日本人の帰国はなぜか長引いた。1425年に漢城に赴いた日本国王使が摂津の国兵庫の住人四郎三郎は帰国できたが、その夫人と子供がまだ帰国できていない、と談判している。隠密作戦・秘密保持のための日本人拘留であるとしたら、なぜ長期にわたって拘留しつづけたのかは疑問である。

 

以上のような疑問が残されていることから、「倭寇退治のためであった」という、室町幕府に対する朝鮮王使・宋希璟の釈明(1420年)は、怪しい。怪しすぎると感じられる。

 

もし、宋希璟の釈明を脇によけるとすると、どのような情景が見えるであろうか。


A 明への朝貢を廃止したことへの報復・懲戒・警告説。

明・朝鮮連合の作戦であったという少弐氏からの報告があり、前年追い返した明の使者(宦官・呂淵)が再度来日して、朝貢をうながしたこともあり、一時は流布した説である。

しかし、当の朝鮮がそれを否定したので、この認識は覆った。


B 太宗の対馬への領土的野心が発揮された侵攻説。

   太宗は1419年6月、軍団の出港に先立って、将兵に向けて「対馬はもともと慶林(新羅の王府があったところ)に属していたものである」と激を発した。現地の日本側にも、これは朝鮮が本気で領土拡大を意図した作戦であると理解していたものもいたようだ。


C 明の海禁政策、倭寇対策、他民族排除、への忠誠を示すためのものという可能性

  もともと明の太祖・朱元璋は倭寇と半島人、倭寇と李成桂との提携関係を疑っていた。李成桂の後継者である、太宗、世宗と倭寇との関係を明側が怪しんでいたとしても不思議ではない。世宗への冊封を認めてもらう条件として倭寇攻撃がなされた、という可能性もある。

 

これからも 明の資料などを含めて、より多角的な検討が必要なのではないだろうか。

2019年6月10日月曜日

通称制度の全面的活用という発想


A 夫婦同姓の問題点と夫婦別性の問題点

現在は、夫婦同姓制度であるため、婚姻に際しては、一般的にどちらかが姓を変えることとなる。このさい、姓を変えることになる個人(多くは女性)が、職業生活上不利益を被る、自己喪失感を持つ、ことなどがあり、問題とされている。

これに対する対策として、夫婦別姓制度が数十年以前より提唱されていた。

しかし、夫婦別姓制度にも別の問題が指摘されている。

① このファミリーをなんと呼べばよいのか(家族名の問題)② 父または母が子供と異なる名前でよいのか、などである。

B 通称登録を国民的な規模で行うと・・

そこで、新しい対策として、「通称の利用拡大、権威化」というものを提案したい。

個人の本名とは別の、『通称』(=ビジネスネーム)を戸籍、あるいは住民登録の情報として追加できるようにする。そして印鑑証明書と同様に「通称証明書」を発給できるようにし、必要ならパスポートや運転免許証にも本名とともに記載する。

親が与えてくれ、戸籍に登記された名前(旧姓)であれば、無条件に認め、新たに本人が独自に考案した名称であれば、他に同じ名前がないかどうかを審査するなどの手順が必要になるであろう。多少の手間がかかるが、現在のIT社会であれば、何ほどのものでもない。若干の手数料でこと足りるはずである。

現実には、ペンネームを使って活動する作家もいれば、ネット上のハンドル名で仕事をしている人間もいる。これを普遍化し、男女を問わず、すべての国民に通称を持つ権利を認め、法制化するわけである。

このような方策、あるいは類似の方策は既に提案されているとも思うが、現行の夫婦同姓制度の問題をやわらげ解消する期待も大きい。検討のうえ、現実化するべきではないだろうか。

 

夫婦別姓について思うこと


A 日本での夫婦別姓運動と隣国の知識人の言動

日本では1970年代以降、夫婦別姓制度が発想・提唱されていた。現在の選択的夫婦別姓制度の要求もその運動の延長線上に考えることができる。

その際、夫婦別姓が国際的な潮流であるかような説明もされていた。

そこでは20世紀の朝鮮・中国の特徴的な夫婦別姓の戸籍制度の影響も無視できない。じつは70年代の夫婦別姓運動に関しては以下のような証言がある。

在日朝鮮人—ことに日本のインテリと交流の機会が多い知識人には国粋主義者が多いようだ。たとえばこういう会話が行き交うのにいくたびか出くわしたことがある。

-- 朝鮮の場合、女性は結婚しても苗字が変わらないそうですね。

-- もちろんです。日本の場合、昨日まで田中〇子だったのが、結婚したとたんに亭主の苗字になる。これはいけませんね。正に従属そのものじゃないですか。

-- そうだわよね。女性蔑視の最たるものだわ。朝鮮の女性はなんとすばらしいこと。うらやましいわ。

-- 女権獲得のために大いにがんばることですね。

この羨望のまなざしをこめて問いかけてきたのは、日本の進歩的な女性、ウーマン・パワーのリーダーの一人であった。

かくいう小生もこういう内容のことでいくどか話しかけられたことがある。そのとき私はどう答えたか。

-- いや、実は朝鮮の女は名前さえないのですよ…。

などと正直なことは絶対に言わない。ただニヤニヤ笑ってその場をごまかし、なんとか話題をそらしたりするのだ。

「女には名前がない」とはゆゆしきことだが、すくなくとも族譜の世界に限っては女の名は絶対にないのである。

尹学準「オンドル夜話」(中公新書)p74

 

初期の夫婦別姓運動に隣国の戸籍制度の存在が大きな影響を与えていたことが感じられると同時に、運動の担い手たちがこの戸籍制度の歴史的な背景、由来について正しい認識を持っていなかったことがわかる。

 

B  韓国・朝鮮の戸籍制度の由来

朝鮮・中国の夫婦別姓について、日本が関わりをもっていたという事実とその意味を指摘したい。

 

1. 中国、朝鮮の女性たちは19世紀まで家の中に閉じこもっていることが要求され、白昼往来で男と話をしたりすることは禁止されていた。

2. 同時期、良家の成人女性は自身の名をもつことはなく、嫁ぎ先では符牒として実家の姓や地域名などが名前となっていた。→ *1__

3. 朝鮮では例えば「金」姓の者同士などの婚姻=同姓婚がタブーとされていた。

   (「同姓不婚」)

4. 朝鮮では貴人も庶民も、既婚・未婚を問わず、みな妾をもとめ、一夫多妻が常態化していた。→ *2__

5. 日本にきた通信使たちは、公式には言わないもの、例えば松平姓の者同士の結婚(同姓婚)を禁止しない日本人を、「ケダモノと変わらない」、とののしったり、男女が往来で立ち話などしていたら「淫らな国俗」であると、いちいち蔑んでいた。→ *3__

6. 1894年の日清戦争のとき、日本が朝鮮に突きつけた甲午改革の一環として戸籍制度が整備された。これによって女性たちも名前をもつこととなったが、その際、あまりにも強かった上記2.~4.の因習に日本帝国は妥協し、夫婦別姓の戸籍システムとした。そして、朝鮮と同様の社会慣習をもっていた中国も辛亥革命(1911)以降、同様に夫婦別姓の戸籍制度となった。  (伝統的な因習を残す、このような施策を旧慣温存という)

 

古代の部族間の政治や外交の一つとして、一種の贈り物として婚姻があり、姉妹で同じ男に嫁ぐこともあった。同姓不婚はそのなごりという性格もある。半島における同姓不婚の制はもともと、特別厳格なものではなかったという。しかし、日本人をケダモノと変わらないと罵倒する態度と同期するように時代が下るとより厳しく規制されるようになり、近現代においても頑強に法体系に反映され続けた。この同姓不婚の因習と近代の夫婦別姓は親和性があることはいうまでもない。

同姓不婚が最終的に撤去されたのは、じつに、そろそろ21世を迎えようかという頃である。そのため、古代の遺制ともいえるこのタブーに苦しめられた悲運の同姓カップルは近代の半島においても膨大な数に上ったと思われる。

そして、法律上は差別されないとはいえ、心理的差別はまだまだ残っていて障害となっている。結婚したとしても、夫婦別姓だから、同姓婚であったことは丸判りなのだ。彼らが、日本や他の多くの国の、夫婦同姓の制度をどれほど羨ましく思っているかは察してもあまりあるものがある。

女性の社会的存在をあれほど無視する状況がなければ、本来は韓国も中国も夫婦同姓の家族制度になっていたはずだ。

C 不正確な歴史理解は不幸をよぶことがある

1970年代の夫婦別姓運動の話にもどる。女性の社会的存在の無視や一夫多妻の副産物である隣国の夫婦別姓を、運動家たちはこともあろうに、男女同権であると痛恨の錯覚をしてしまった。

隣国の知識人はその錯覚を正すことなく、むしろ助長さえした。そして内心では(一部の)日本人の無知ぶりを楽しんでいたわけだ。(尹学準氏は別である)

このような両国関係の中では日本人は歴史に関して少しでも不正確な認識をもつと、落とし穴に嵌ってしまいかねない。

今日の選択的夫婦別姓運動についても考え直すべきである。

当人達にしてみれば、男女平等のための運動であり、正義の実践のつもりであろうけれども、離れた場所からみれば別な光景としてとらえられる。

何百年も続いた東アジアのとても残念な歴史と、1970年代におきた喜劇的にも残念な錯誤の痕跡を自らの体に擦り付けているようにも見えるのだ。

 

D 史料

*1__ (朝鮮の)女には名前がない[とくに年頃の娘には、身近な者以外は名前を呼ぶことができず、また族譜でも、たいていの場合、女は除外されているが、名前がないわけではない]大部分の若い女性は、なんらかの異名をもらい、年長の親戚や一族のものは、彼女が子供のあいだこの異名を呼ぶ。しかし、彼女が結婚適齢期に達すると、両親だけがその名前で呼ぶことができ、一族の誰もが、他人と全く同じように、誰それの娘とか、誰それの姉といった遠まわしの表現する。

結婚後には、この異名もなくなる。たいていの場合、実家の親戚は彼女の嫁入り先の土地の名で、また婚家先の親戚は彼女が嫁に来る前に住んでいた土地の名で表現するのである。・・( )・・

女性が法廷に出頭しなければならない場合、官吏は公判の便宜上、裁判が続行しているあいだに限って、職権で彼女に名前をつける。

・・( )・・

上流階級の社会では、幼い男女は八歳もしくは十歳から席をおなじくしないことが礼儀とされている。・・( )・・まもなく少年たちは内房に足をふみ入れないようになる。逆に娘たちは、内房に閉じ込められ、そこで教育され、読み書きを学ばねばならない。彼女たちは、兄弟たちと遊んではならず、男の目に映るだけでもはしたないことだと教えられる。このようにして彼女たちは、少しずつ意識的にみずからを隠すことに努めるようになる。

 

ダレ編著 金容権訳「朝鮮事情」(平凡社、東洋文庫_19世紀の宣教師の記録)p212~213

 

*2__誰彼かまわず妾を求める

夫は、・・・(妾を)養っていけるだけの財力があれば何人囲っても差し支えない。

妾が法律上一人の男の所有物になるには、その男がある娘もしくは寡婦と内縁関係にあるということが証明さえされれば、それでこと足りる。誰も彼から妾を奪うことはできないし、妾の両親でさえ、自分の娘を取り返す権利はない。たとえ妾が逃げ出したとしても、男は妾を力ずくで自分の家に引き戻すことができる。

ダレ編著 金容権訳「朝鮮事情」(平凡社、東洋文庫_19世紀の宣教師の記録)p219

 

*3__・・( 日本の女たちは)・・あるいは年少の男子のあたまを撫でたり、頬を撫でたりして、人の密集した広い路で相悦しながら、少しも愧じる色がない。

(日本人は)婚姻は同姓を避けることなく、従父兄妹(同祖の兄妹)がたがいに嫁娶(嫁入りと嫁取り)す。兄嫂(兄嫁)や弟妻も寡居(やもめ暮らし)すれは、即ちまた率いて養う。

淫穢の行はすなわち禽獣と同じく、家々では必ず浴室を設けて男女がともに裸で入浴し、白昼からたがいに狎れあう。  申維翰著 姜在彦訳「海游録」(平凡社、東洋文庫_朝鮮通信使の関連記録)p311~312