2013年6月12日水曜日

難解でなければ価値がないのか?

現在読みかけの本がたくさんある。

”日本の言説空間”があると仮定して、その見取り図的なものが欲しくなり、東浩紀の「存在論的郵便的」というのを読んでみた。

難しくて読み通せない。

少し昔の浅田 彰の「構造と力」という本も読みかけたが、中断している。
東浩紀よりも読み易いのだが、引き込まれるような感じがまだないので読み続けるのが億劫になる。

何気なく手にした竹田青嗣の「言語的思考へ_脱構築と現象学」というのが意外と読みやすい。デリダへの批判的批評のようだが、これは読み通せそうだ。


ただ、この本の中で小林秀雄と柄谷行人の名前が出てきた。
そして、彼らにとって記念碑的なエッセイだという「様々なる意匠」と「批評とポストモダン」という作品もおさえておかなくてはという気になった。

「様々なる意匠」をとりあえず読んだ。マルクス主義文学に対する批判的視点が窺えるが、難解なため、もう一度読まなければ理解した気にならない。

読み通せたのは、なにより、短かったおかげである。

小林秀雄の「様々なる意匠」を読むついでに宮本顕治の「敗北の文学」も読んでみることにした。ある意味では両者は対の関係といえるだろう。











    小林秀雄              宮本顕治

こちらのほうは予想通り、ずいぶん読みやすい。しかし読みやすいからといって支持できるかというというと、また別問題だ。

 
今、つらつら思うのだが、この種のランドマーク的言説というものは、どれもこれもみな難解である。最後まで読み通しずらく書く、という約束事でもあるのだろうか?








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