日本と朝鮮 養子制度の大きな違い
「家系重視」の封建時代、日本にも朝鮮にも養子の制度はあった。日本では300諸侯(大名)はじめ庶民にいたるまで頻繁に養子縁組が行われたが養子を求める範囲が広かった。
朝鮮では同姓同族の人間のみ養子になりえたが、日本では他家(異姓)からも養子をとった。他家から養子をもらう際に活用されたのが婚姻によって結ばれた親戚関係である。
米沢藩上杉家は戦国最強・上杉謙信を祖とする有名大名だが同族からの養子や他家からの養子が活躍した。
謙信(初名は長尾景虎)自身、兄の養子となって19歳で越後守護代職につき、軍神とも評せられた後、31歳で名門山内上杉家の上杉憲政の養子となった人物だ。
初代藩主 上杉景勝は謙信の姉の子で養子。
九代藩主 上杉鷹山が江戸時代を代表する名君といわれるのはつぶれかけた藩の経済を立て直した上に、”藩という共同体と人民が君主(藩主)に奉公するのではなく、君主が共同体に奉公するのだ”という家訓を残したからだが、彼も他家(高鍋藩秋月家)からの養子だ。
上杉 鷹山
なぜ彼が相続したのだろうか。
彼を養育した祖母(母の母である豊姫)が上杉家の出身で、「我が孫ながらなかなかに賢い」と、当時の八代藩主に幼い鷹山を婿養子とするよう推薦したことと、彼の実父・秋月種美への世評が高かったためといわれている。
上杉一族の男子は大勢いたが、同姓本位ではなく、人物本位で選ばれたということのようだ。朝鮮ではありえない相続である。
鷹山を養育した祖母・豊姫の父は四代藩主綱憲だが、彼もまた他家からの養子でかれの実父は”忠臣蔵”の準主役として有名な吉良上野介義央、母が三代藩主・綱勝の妹・富子。
朝鮮では異姓からの養子(婿養子)は考えられないから、各家の当主とその後継者はなんとしても男の子を設けることが使命とされる。
そうなると、早婚が一般的となり、名門家の長男は10代で息子がいるという状態が当たり前になる。 その息子の母である女人は10~15歳で婚姻する。
まさしく子供を産むための装置である。
朝鮮王后の候補者になりうる条件はあれこれあるが、年齢の条件は9~12歳だそうだ。(金用叔「朝鮮朝宮中風俗の研究」
日本での離婚と再婚
江戸期の日本では当事者の合意があれば離婚再婚に問題はない。武士でも庶民でも、離婚について夫婦が合意した場合、亭主がさらさらと離縁状(3行半の書式)さえ書けば円満に別れられたし、再婚も珍しくない。
亭主が絶対に離婚しないといった場合でも、それなりの理由があれば、公的な離婚訴訟をおこす手段もあった。
江戸時代の武士がさらさらと書いて妻にわたした離縁状(三下り半)
「以後、あなたがどこへお嫁にいこうと、私はかまいません」というようなことがかいてある
上流家門の場合は、女人の再婚、再々婚は制約が多い事柄であったはずだが、非合法ではなかった。
徳川3代将軍家光は初代の家康を除けば、正室の子が親の後を継いだ唯一の例(他の将軍は皆側室の子か養子)だが、彼の母は再々々婚の後、彼を生んでいる。
では朝鮮社会では女性の再婚は認められていたのであろうか。
これは実質的に禁止されていた。 庶民の間では実際には行われていたはずだが、女性の離婚・再婚は公的には、”禽獣と同様の淫穢の行”として許されないことだったのだ。
特に儒教倫理の締め付けが厳しいときは、ひそかに再婚していた庶民の女が糾弾され、なぶりものにされたという。
日本に対する”小中華”意識
儒教倫理の締め付けが強化された背景として、実は日本との関係も影響したのではと思われる。
江戸時代、朝鮮は日本を”夷狄”と規定しそのことを自分たち自身に納得させようとした。 日本の男女が、白昼往来で和んだりするのを見ては、「愧ずべきである」とつぶやき、離婚・再婚の自由度が高いことを知るや「禽獣と同様の淫穢の行」だと叫んだのである。
翻って、自国(朝鮮)ではそのような”道に外れた行為”は絶対に許さないと厳罰でのぞみ、女性の人権を踏みつけにしたのだろう。
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