A. 朝鮮王使(通信使)の実態と技術移転
1 主要な朝鮮王使と肩書き
「玄海灘を越えた朝鮮外交官_李芸」の中で柳鍾玄は朝鮮王朝実録に基づいて、朝鮮から足利将軍に派遣され、京都まで行って帰国したのは、以下の8回であるとしている。
① 1410年 正使 梁需
② 1420年 正使.宋希璟、副使.尹仁甫
③ 1422年 正使.朴煕中、副使.李芸、書状官.呉敬之
④ 1424年 正使.朴安信、副使.李芸、書状官.孔達-崔古音-朴忱
⑤ 1428年 正使.朴瑞生、副使.李芸、書状官.金克柔
⑥ 1432年 正使.李芸、副使.金久冏、書状官.房九成-金元
⑦ 1439年 正使.高得宗、副使.尹仁甫、書状官.金礼蒙
⑧ 1443年 正使.卞孝文、副使.尹仁甫、書状官.申叔舟
これらのうち⑤、⑦、⑧が通信使、他は回礼使という名称が使用された。
① 除く7回はすべて世宗の使者であり室町時代の通信使(回礼使)は実質的に「世宗の使」の歴史というのに近い。
2 「日本通信使」と信物
朝鮮側では「朝鮮通信使」とは言わず実際には「通信使」ないしは「日本通信使」といっている
(資料1〈1428_12_7〉)。「朝鮮通信使」というのは日本側での呼び名のひとつ。
⑤の通信使の際、朝鮮が信物(礼物、音物、方物、進上品)として、鞍子(1面)黒細麻布、白細苧布、白細綿紬(各20匹)、人参(200觔)虎豹皮(各10領)、蘭草方席、満花寝席(各10張)、松子(500觔キン)、清密(20斗)を持っていった。(資料1 )
これに対して室町幕府は彩扇(100把)、長刀(2柄)、朱塗木車盌(70事)朱塗浅方盆(20片)片髹漆木桶(2箇)を送っている。(資料2〈1429_12_6〉)
これらの音物は前例を重んじたり国の名産品が選ばれるはずだが、清盛の時代の日宋貿易の時代から、彩扇や日本刀は中国で評判が良かったから日本側の品選びは常識的で実用的なものだったと思われる。[ちなみに扇子(folding fan)は日本発祥の文化である]
世宗の時代以前から半島でも扇子は使われていたが、朝鮮時代にはかなり重要なアイテムとなっていった。
1504年閏4月23日に「全羅・慶尚両道ニ命ジテ倭扇400柄ヲ封進セシム」(燕山君日記巻53)という記録がある。
資料1〈1428_12_7〉
資料2〈1428_12_7〉
3 朝鮮の端午扇と’艾虎(ガイコ)’
朝鮮では古い時代、5月5日には国王は造花を纏束した艾虎(ガイコ)というものを閣臣に配った。洪錫謨は東国歳時記の中で、艾虎の語源について中国の『歳時雑記』を引き、「艾(ヨモギ)を以て虎形をつくり、あるいは綵を剪って小虎をつくる。これを頭に挿す」ことが元になっていると考証した。
この領賜品が後に扇になったようで「かんがうるに、『戒庵謾筆』には、『端午の日に国王は、京官たちに宮扇を賜わる』と書いている。これすなわち艾虎である」と言っている。
この宮扇は毎年、工曹で、竹の骨に紙を貼って鳥獣を画き、五色の布帛をもってそれを纒いめぐらしてつくったもので、これを端午の日に国王が宮中の宰臣や侍従たちに下賜しましたが、これを「端午扇」とよんだ。平凡社「朝鮮歳時記」p97-98
「湖南および嶺南地方の監司および統制使は節扇を国王に進上し、また常例にしたがって、朝臣や友人たちにも贈る。扇子の名産地として知られている地方の守令たちも、国王に進上もし、朝臣や友人に贈与もする。・・・・・・
また色彩も、五色をはじめ紫色、緑色、鴉青色、雲暗色、石磷色など多様である。しかし一般的には、白色か黒色かの二色、黄漆か黒漆かの漆貼扇が好まれている。また青い扇子は新郎(花婿)が、白い扇子は喪中の人が用い、色物の扇子は婦女や子どもたちが用いる。」「朝鮮歳時記」p100
「ソウルの風俗として、端午扇は官員が吏属にあたえるのにたいし、冬至の暦書は、吏属が官員に献ずるならわしとなっている。これを『夏扇冬暦』という。このような風習は、地方の友人、墓守り、土地管理人にまでおよぶ」「朝鮮歳時記」p147
資料3_晴れ着の両班と扇子
資料3_晴れ着の両班と扇子
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