2016年1月13日水曜日

通信使のユネスコ共同申請がなぜ危険なのか



このたび「朝鮮通信使」関連の記録類を世界記憶遺産として、ユネスコに対して日韓有志釜山文化財団、朝鮮通信使縁地連絡協議会、朝鮮通信使ユネスコ記憶遺産日本学術委員会)による準備が数年来なされてきましたが、このたび重要な段階に至りました。


今月末(1/29)に対馬市で日韓の関係者による調印式、来月1日に長崎市で県主催のシンポジュ-ムが行われる予定とのことです。
通信使の歴史は、室町時代の六代将軍・足利義教の襲位を祝う名目で朝鮮国第四代国王・世宗が1428年から1429年にかけて京都に派遣した王使にはじまります。
世宗王はその32年の治世中に合計7回、王使を京都に向けて発出させましたが、1428年の王使は4回目にあたります。
その国書にも「今善繼善述益敦信義以」とあり、信義を通わす使者だから通信使と命名したものと思われます。
彼は合わせて3回の日本・通信使を派遣しており、この時期活発な両国の経済的、文化的な交流が行われました。
世宗は現代の韓国においてはハングルを創作した王として国民の尊崇を一身に受けている王ですが、日本側からみれば、これに加えて通信使の交通を始めた王としても記憶される存在です。
 
ところが、しかし今回のユネスコに対する共同申請の対象としては、江戸時代の通信使に限定し、世宗代の通信使、および関連する記録は対象から除外しているということを知りました。
これは全く不自然であり作為的であると受け止めざるをえません。江戸時代の通信使は再開された通信使のシステムにすぎず、世宗代の通信使を語らずには、その名の由来さえ明らかにすることができないのです。
「室町時代の通信使の歴史と江戸時代の通信使の歴史の間には秀吉の大陸侵略があり、両国の友好を記念するためには室町時代の通信使を無視した方がよい」という意見もあるようですが、このような主張は、「日本とアメリカの親善・友好の歴史を考える際には、途中に苛烈な太平洋戦争の時代があったから、戦前の交流は無視してしまおう」と主張しているようなもので、理屈として成立していません。
室町時代の通信使の歴史を除外することは単に不自然不合理であるだけでなく、大いに危険であるということを感じています。以下にその理由を説明します。
 


 1. 二つの歴史評価



 
通信使の歴史に対して2種類の認識があることを示したいとます
認識A
 ① 世宗代の日朝関係は倭寇対策がメインであり、彼の通信使に関しては知る必要がない
 ② 江戸時代の通信使の往来によって日朝間の平和の時代が訪れた 
 ③ 江戸時代まで朝鮮は日本と比較して、先進的な文化をもっていた
 ④ 日本に赴いた通信使は先進的な文化を伝えようとし、日本側は尊敬の念を以て歓迎した
 
認識B
 ① 世宗代の日朝関係は濃密・多様であり日本の文化と技術は朝鮮の文化に大きな貢献をした
 ② 江戸時代の通信使は日朝間の平和の結果として再開されたものであり、平和の原因ではなかった。
    徳川政権は実現した朝鮮との講和の延長線上に、明国との講和を追及したが、仲介を要請された朝鮮はこれに協力しなかった。
 ③ 江戸時代人の自覚は別として、現代人の評価からすれば当時の日本の消費文化・書記文化は朝鮮を圧倒していた。
 ④ 江戸時代の通信使によって伝えられた文化はほとんどなく、善隣を標榜しながらも、朝鮮側の読書人は「日本人は野蛮な民族である」と誹謗するための理由を捜していた。そして日本の為政者もそのことを知っていた
 認識は韓国の歴史教科書の立場(韓国の教科書では事実上、世宗の通信使はなかったことになっている)であり、日本の中にも同じように考えるひとがいないわけではありません。
しかし、近年、中世の外交史研究などが急速に発展し、日本では認識、あるいは部分的に認識を持つものがふえつつあると思います。
両者は水と油のように異質であり、これまで議論されることはあっても合意や融合にいたるにはまだまだ遠い状況です。しかし、事実確認と合理的な論理をくり返すことによって、よりまっとうな歴史認識を両国の国民が共有できるようになることが期待されます。
現時点は、通信使の歴史に対する評価を両国民が納得したとするには全く不適当です。
 添附した論考ドキュメント「世宗の通信使と日本文化_その1-1」、「_その1-2」(その2,3は作成中)」は、(世宗自身が熱心に取り組んだ)和紙の技術や倭楮という資源が対馬を経て朝鮮に伝わった点など、韓国人も同意せざるをいない、この時代のトピックを説明しています。
  また世宗の通信使と日本文化_その3の中で朝鮮側が強調してやまない日本夷狄視=秀吉の侵略への恨みという論理に対する根本的な疑問も提示する予定です。
 


2. なぜ危険なのか



2.1 近代以後の歴史認識の基礎として
認識Aと認識Bはそれに続く近代以後に関する歴史認識と関連しています。
認識A
 ① 明治維新の際に力量を増した日本はそれ以前に尊敬と敬意で接していた朝鮮に対して手のひら返しを行い、先進文化を抹殺するための施策をとった
 ② 日本総督府の統治は過酷なもので、日本は朝鮮を残忍に蹂躙した
 ③ 韓国の近代化は朝鮮戦争の後に自力で成し遂げられたものであり、旧植民地でありながら、奇跡的な経済発展をなしとげた。
 
認識B
 ① 近代化を進めていた日本は一時、福沢諭吉のハングル活字版への援助など、共同で西欧列強に伍すことを夢見たが、「日本は我が国、百世のあだ」という朝鮮側の反発もあってうまくいかなかった。
 ② 日清戦争後の日本は、宦官の制や奴婢制度の廃止、戸籍に良家子女の名前を記録するなどの社会制度の近代化や義務教育、近代諸産業の基礎づくりを行い、ヨーロッパ諸国の植民地統治とは異なる統治をおこなった。
 ③ 戦後、韓国の浦項製鉄への八幡製鉄(および富士製鉄、日本鋼管)の技術支援や、自動車企業への日本の同業社からの技術支援など日本は韓国の産業発展に協力した。 造船、化学工業、電子産業などは同種産業の強国であった日本から、情報の摂取、生産設備の導入などの面で他の諸国に対して韓国には特別有利な環境があった。
 これらのの関係は原理的には独立した事柄であってもよいのですが実際にはつながっています。(特に--
の認識はの認識を補強するために要求されているともいえます。
(付録に、朝鮮の方が先進的な文化を持っていたし、日本は朝鮮を敬っていたという韓国の最近の論調の例を示します。)
 
2.2 ユネスコ登録の不可逆性と世界市民の知識の限界
ユネスコ登録が歴史認識のすべてでないことは当然としても、大衆的にはユネスコという権威ある国際機関の保証付きの歴史文化の知識ということになっています。
「朝鮮は先進文化を日本に伝えた」と明文化されなかったとしても、もし「日本側は尊敬の念を以て歓迎した」ということがもっぱら記録され、室町時代の通信使が登録されなかったならば、認識Aまでは半歩の距離であり、朝鮮は日本の先生で文化を教えてあげたらしいよというような主張が世界の常識となるわけです。
しかも、最近周知のように、他国と関連する記憶遺産は関連する国が同意しなければ登録が困難になりました。
つまり問題は、一度、共同登録されてしまえば、相手国が同意しない限り変更ができず、不可逆的に固定化されてしまうことです。不完全な合意をもって共同登録することは全く危険なことと言わねばなりません。
後になって、世宗の通信使の方が実質があり重要だ、などといくら主張しても通用しません。
なぜならば、国際化の時代ですから世界の市民は多くの国々に関する知識を蓄えなければならず、特定の二国間関係の知識はツイート一回分程度に短縮されざるをえません。ユネスコ登録とは別の、「韓国がどうしてもというのでこの形を暫定的にとった」などと便々とした説明を聞かねばならぬ義理は一切ないわけです。
 
2.3 重要な手掛かりの封殺
先の認識Aは「日本収奪論」と呼ばれるもので、現在の韓国の支配的な認識ですが、最近、認識Bを持つ研究者も韓国にいて、論争が断続的に行われています。将来は後者が増えるものと考えます。こちらは「日本近代化論」と呼ばれています。
一方、我々もまた実証的な検討の範囲を広げ、中世・近世に関する認識Aを修正し、認識Bを常識化すべきと思います。
それには、朝鮮の読書人(両班)が日本を誹謗したことに関して、秘められた深層の原因が世宗代の濃密な文化交流の中で発生したという知見が重要となると思っています。 (「その2」「その3」で説明)
そして、ふつうは世宗の業績を最大限評価する、韓国の思想界が、世宗自身が多大の負担に耐えてまで推進した通信使の歴史を徹底無視するという奇怪な言動を示すことを、そのようなものに対する警戒心の表れ、証左と理解することも可能でしょう。
 
2.4 キャンプ・バージニアケース(2005/1)との類似性
今回の共同申請は2012年の釜山文化財団から日本側への働きかけから始まったと聞いているし、全体をとおして韓国側や民団(在日大韓民国民団)からの能動的なアプローチがあったと思います。
昨年の岡崎市での家康まつりに、新たに朝鮮通信使パレードを申し込んだり、
ソウルから東京までの(朝鮮通信使登録)サイクリングキャンペーンなどへの日本側での参加者組織化も民団側が主導的にかかわっていると思われます。
これまで述べてきた観点をふまえると、ひとつの事例を想起せざるをえません。
クウェートの米軍基地「キャンプ・バージニア」で、20051月に撮影されウェブサイトに掲載された写真には日の丸がついた迷彩服の陸自隊員と韓国軍兵士が立ち、ハングルで「独島は大韓民国領です」と書いた紙を掲げていました。
 
韓国軍兵士がほほえみながら一緒に撮ろうと(ハングルを理解していない)陸自隊員を誘った結果このような写真がとられたわけです。
日本側が友好を願い、韓国側が「友好」を口にしても、相手の深層心理まで把握していない場合や観光開発に気がはやると、落とし穴に、まっさかさまということがおこりうるのです。
 


3. 結論


 決定的に重要なことは世宗の始めた通信使(室町時代の通信使)を含めて考えるかどうかです。
世宗の通信使の真実を日本と韓国の市民が共有できれば、双方の歴史認識が近づき、友好度は高まります。
この歴史が韓国の歴史から排除されているのは、先にも述べたように、この国の反日センチメントを醸成しようとする立場からみて、邪魔であるからにほかなりません。
日韓友好を考えるならば、真っ先にとりあげなければならないはずの世宗の通信使を意図的に除外するということは、真意は「反日」あることは明白です。
ユネスコという国際舞台で「反日」を固定化しようとする、それも日本人の協力によってなしとげる。
どうしてそんなことが可能かといえば、日本側の善意を利用しているわけです。表面的な「平和」「友情」「善隣外交」というフレーズを山ほど振り撒き、各種のイベントを展開してムードを演出し、観光開発という絵に描いた餅をみせて錯覚を誘ったりしてきたと思われます。
まったく、“精緻な狡知“というべきでしょう。ある意味、壮大な規模での「キャンプ・バージニア」を新たに試みているわけです。
危険であり残念なことであります。
今回の共同申請は中止、ないしは延期し、日韓間の冷静で客観的で真摯な歴史対話こそをまず先行すべきであり、観光開発などはその後、本当の友好の内実を高めた後でなければならないと申し上げます。このままでは大きく後悔することになるのは必定です。
 

 


〈付録〉朝鮮の方が先進的な文化を持っていたし、日本は朝鮮を敬っていたという論調



 
 全世界で日本を堂々と無視する国は韓国しかないという。客観的な指標だけを見れば「実にばかげたことをしている」と言われても仕方がないだろう。ところが日本という国は、多少無視しても構わない。日本は最初から「帝国」になれるような国ではなかったのだ。

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西洋文明で彩られた日本をモデルとして考えた。しかし、それは本当に短い間だった。当時の日本をじっくりと観察してみたところで、これこそ文化だと認めるに値するものが存在しなかった。さらには、日本は自分たちよりも植民地の水準の方が高いということを見抜けなかった。周辺の先進文化を抹殺するために、ありとあらゆることを行った。

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朝鮮日報_寄稿】韓国が日本を無視しても構わない理由___2015/09/27
南柾旭ナム・ジョングク崇実大学文芸創作学科兼任教授http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/09/26/2015092600369.html
 


 江戸時代以前には尊敬と敬意を持って韓国に接していた時代があった。

西欧列強を文明の規格として近代化にだけ関心が集まっていたために、それまでの尊敬されていた韓国は蔑視と差別の対象を越えて、もはや嫌悪の対象に変化した。
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 過去の百済の使節・阿直岐と王仁博士が日本を教育してなかったとしたら、彼ら日本人に「カナ(KANA)」という文字が甘受されていただろうか。詳しく調べれば、三島由紀夫も村上春樹もその百歳の庶子に過ぎないのに、なぜ本来の直系の赤子である私たちが彼らの毒のような下劣な文章に感染してばかりいるのか、そろそろじっくり振り返る時期である

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[寄稿] 日本文学感染症候群
京郷新聞(韓国語) _____2015.6.25
金賢姫(キム・ヒョンヒ) 日本文学研究者
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201506252105375






日本は多分に二重的だ。古代日本は百済など韓半島(朝鮮半島)から多くを学んだ。しかしその後力量を強化して壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を起こした。

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 日本はまた経済的な一流国家としての自尊心とアイデンティティに対する執着が強いながらも、精神的・道徳的なアイデンティティの価値を相対的に低く評価している。このようにバランス感を失って精神的な基礎が揺らぎながら、日本は植民地時代の韓国を残忍に蹂躪(じゅうりん)して第2次世界大戦時は人間としての尊厳と価値を踏みにじり、想像できないほど残酷で野蛮的な行動もはばからなかった。


日本は自己破壊的な偏見の中で、すまないと思う術も知らずにバランス感と羞恥心まで弱くなってしまったのではないのか疑わしい。道徳的な症候群に陥る感じだ。

日本の精神的・道徳的優位に立って堂々と

2015年08月14日
チョン・ドクグNEAR(North East Asia Research)財団理事長
http://japanese.joins.com/article/445/204445.html?servcode=100&sectcode=140&cloc=jp|main|top_news
 
 
  1989年に韓国折り紙協会を設立したノ理事長は、私財まで投入して国内外で20万人の折り紙講師を育てた。千羽鶴は日本がいち早く高めた国力を基礎に世界に広めた習俗だ。それでも折り紙の宗主国は日本にはならない。韓国でも864年に道銑国師が折り鶴を投げて落ちた地点に玉竜寺を創建したという話が伝えられるなど、伝統では決して劣っていないからだ。むしろ610年に高句麗の僧侶・曇懲(ダムジン)が紙を日本に伝える時、折り紙も渡ったと推定される。
{推古天皇「十八年春三月、高麗王貢上僧曇徴・法定。曇徴知五經。且能作彩色及紙墨、并造碾磑」と日本書紀にあるのは、高句麗から儒学にも通じ、工芸・技術にも多能であった曇徴という僧がきた、と解すべきであって、これ以前には日本に造紙の技術がなかったと決めるべきではない。__千堂 注}
ノ理事長は・・・・・「韓国国際協力団(KOICA)海外ボランティア団と世界各地の韓民族ネットワークを活用し、折り紙文化を伝えなければならない」と述べた。また「日本の公的機関の折り紙普及努力を韓国政府も参考にするべき」と話した。
モンゴルに広まる折り紙韓流…「宗主国は日本でなく韓国
[中央日報/中央日報日本語版]201210101101
http://japanese.joins.com/article/015/161015.html?servcode=400&sectcode=420

  

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