2016年1月12日火曜日

朝鮮にとっての日本の文化_堅靭な和紙、濃密な室町時代の倭舘往来_世宗の通信使その1-2


 

4 日本へのまなざしと通信使の目的

第一回通信使の名目は6代将軍義教の襲位の祝いだが、本音は別な所にあった。

通信使が派遣される五か月前[1428年(陰暦)7月1日]のこと、

資料41428_7_1〉のなかで「聞日本國有百篇尚書可令通信使購來且倭紙堅靭造作之法亦宜傅習(世宗実録 巻41)とある。
 

意味は 「日本には100篇の尚書があると聞いた、通信使に購入させる必要がある。また日本の紙はしゃきっとして強い。この技術はなんとしても習らってこなければならない」

というところであろうか。

     資料41428_7_1
  


これらのことが通信使を派遣した動機の重要部分であると考えられるが、同時に朝鮮の中枢が日本の中央の文化をどう捉えていたかを窺い知ることができる。

尚書とは書経のことで、信ぴょう性があると言われる今文尚書は28編であるが、もともとは約100篇という古い伝承があった。日本は歴史の古い国だから、太古の文物が残っていても不思議ではないという感覚があったものであろう。

 
また世宗は日本の紙製品を実際に手に取ってみていることがわかる。それはどのような紙製品であったのかということになるが、ひとつの可能性は和紙を貼ってある扇子であろう。しかし後述するように書籍(冊子)用の薄い紙であったことも考えられる。

 

そして一年後の1429年、日本から戻った第一回通信使・朴瑞生は世宗への報告を行った3日後

(12月6日)群臣を前に、

又具啓日本深中青鍍銀造紙朱紅軽粉之法皆留之」(資料5 〈1429_12_6〉、世宗実録 巻46)

「また一同に対して、日本で調べてきた紺青石、鍍銀の技術、製紙の技術、朱紅軽粉の技術を具体的に説明した。一同のものは皆これらを書き留めた」。

資料51429_12_6



“深中青”という言葉は酸化銅の化合物の一種である紺青(こんじょう)のことで、顔料であると同時に古代においては銅の鉱石として利用された。(世宗は日本から取り寄せた紺青と緑青(ろくしょう)を各地に見本として送り、銅鉱石の探査にあたらせている)

 
12月3日、世宗に対しては、これ以外に、有名な水車の技術、湯屋のサービス、橋の修築・維持、銅貨(銭)の利用などのシステムに関する報告をしている。(資料6 〈1429_12_3〉


この他、高速船(へさきが尖っていて鉄釘を用いる船)の技術、木炭による還元製錬、日本刀の制作などを世宗の政府は日本から伝習し半島に根づかせようと試みている。


日本からの礼物にあった、漆器に関しても、朝鮮側は日本の漆器工芸技術に注目している。後の記録であるが、(1502年10月3日)「漆工ヲ三浦倭及ビ対馬島に求メシム。司饔院ノ漆器ヲ作ランガ為メナリ」(朝鮮史第四編第六巻、燕山君日記巻46)とある。

 

 資料61429_12_3
 

 
 

 

 
5 堅靭な紙-和紙の技術
製紙の法は7世紀に高句麗僧・曇徴が日本に伝えたとされているが、これは俗説である。
日本書紀の記述には(推古天皇)「十八年春三月、高麗王貢上僧曇徴・法定。曇徴知五經。且能作彩色及紙墨、并造碾磑・・・とあるが、高句麗から仏道以外に儒学にも通じ、工芸・技術にも多能であった曇徴という僧がきた、と解すべきであって、これ以前には日本に造紙の技術がなかったと決めるべきではない。
扇子の始まりが、特殊な木簡であり、大量の木簡の遺物が出土していることが示唆しているように、日本には旺盛な書記文化があった。
それ以前から日本で紙は造られていて需要も大きかったので技術者は歓迎されたと考えることもできる。
 
世界最初の紙は書記のためではなく包装用途であったが、それを書記に使えるように改良したのが漢の蔡倫であったという説がある。
いずれにしても、初期の紙は麻(布)のぼろを原料として細分化したものが主たる成分であった。
後世、楮(こうぞ)など他のさまざまな植物繊維を混入させるなどして、より強度をもつ紙を求めて、あるいはより安価な紙を求めて東ユーラシアの各地で工夫がなされた。
 
日本では原料として麻を使用しない紙の分野で特徴のある発達をしていた。
 
ルイス・フロイスがヨーロッパと日本の文化風俗の違いという視点でまとめた小冊子(1585)のなかで
 「われわれの間ではすべての紙は古い布(麻布)の屑から作られる。日本の紙はすべて樹の皮で作られる」(「ヨーロッパ文化と日本文化」p142
 「われわれの紙には僅か四、五種類あるだけである。日本の紙は五十種以上ある」
(同P141)と述べている。
岡田章雄氏による訳注によれば、「当時の文書に用いられた主な紙には、麻紙、穀紙(楮紙)、斐紙(雁皮紙)、檀紙、引合、杉原紙、奉書紙、宿紙、半紙等があるが、さらにその生産地により種類はきわめて多かった」。
 
麻を原料としていた時代では、材料のだま(凝集)をふせぐために、繊維の長さを極小に裁断していたが、そのため強度が弱くなるという弱点があった。
 
繊維の長さを保ちつつ凝集を防ぐために、多糖類を多く含むトロロアオイの根などからとれる、“ねり”とよばれる粘剤を加え、これによって薄く均質な紙を造れるようになったのは日本人の工夫といわれる。
世宗が「倭紙堅靭」と評したのはそのような事情を反映していると理解すべきであろう。
 
そして、1429年12月6日、長期の滞在を終え日本から戻った第一回通信使・朴瑞生が群臣に対して報告した和紙製造の技術とは「ねり」を加えるこの製法であった可能性が高い。
 
 
 
6 対馬より倭楮を輸入
 
世宗は歴代朝鮮王の中でも冊子(書籍)印刷に情熱を傾けた王として知られている。 当然、それに用いる紙や印刷のための金属活字の改良をくりかえしていた。
 
通信使が和紙製造の技術を伝習する以前から、
 
世宗6年(1424)8月 および11月 「造紙所 竹葉・松葉・蒿節・蒲節四色の冊紙」が進上され印刷所に回したという記述がある。
 
朝鮮はこのほか明に対して慣例により厚手の“表箋紙”を献上する進箋使を派遣しているが、この紙の製造にも苦労しているようすの記事もある[世宗10年(1428)12月]。
 
世宗は和紙製造の技術を伝習するにとどまらず、原料の植物を日本・対馬から導入している。
資料7〈1430_8_29〉)。 また今後の紙の増産に備えて造紙所の組織を強化している(資料8〈1431_4_1〉)。しかし、最初のうちは慶尚道・東萊県、京畿道・江華に植えた倭楮の栽培は順調とはいかなかったようで、「うまくいっているという報告がない、さては枯らしてしまったのか!これからは毎年夏秋に生育状況をきちんと書面で報告せよ」と気をもんでいる(資料9〈1434_8_3〉)。
 
倭楮の栽培の努力はその後も続けられ、京畿道・江華でとれた倭楮の実を気候が似た忠清道・泰安、全羅道・珎島、慶尚道・南海河東に分種(資料10〈1439_1_13〉)し、さらに10年後、「これまでうまくいかなかったところは栽培に熱意を持たなかったからで、十分気をつけて栽培するならうまくいくことが分かった」として、気候が合う各所の官営の園圃に送っている(資料11〈1447_10_20〉)。
どうしても和紙に準拠する紙をつくろうという世宗の熱意は並々ならぬものがある。
 
 
朝鮮時代の製紙の技術は高麗時代とくらべて明確に向上していると評価されているが、以上に述べたように室町時代の通信使による日本からの技術移転、および原材料となる倭楮の移植が影響していると考えられる。
 
この後、朝鮮より中国へ紙の輸出が増え、韓紙への評価が高まっていく。
また、室町時代に日本に向かった王使の礼物にはなかった韓紙が江戸時代の通信使の礼物のなかに含まれるようになる。倭楮の移植にかけた世宗の執念がみのったというべきである。
 
 
資料71430_8_29〉     資料81431_4_1〉           資料91434_8_3
 
 
 
 
 
     資料101439_1_13〉          資料111447_10_20

 

 
 

7 活発な通交・通商と大きな朝鮮側の負担
 倭館は江戸時代には釜山にあった。倭館は日本各地より訪問した使者一行のための宿泊・接待のための施設だが、世宗の時代には漢城(ソウル)にあった。それとは別に三浦には交易所があり、定住生活する倭人(恒倭)がいた。
漢城の倭館には、室町幕府だけでなく、有力守護・国人・博多商人などが通商の利や安定的な交通の保証を求めて宿泊していた。
朝鮮側からも室町幕府に直接赴く以外に、対馬に出向いたりしたのだが、また逆に対馬島主・宗貞茂、貞盛達やその関係者、角逐があった大内、少弐達の使者、大友など各地の守護大名の使者などが漢城に出向いたりと往来が頻繁であった。彼らの目的は基本的には通商だがその他の目的もあり多様だった。
これら倭客(正規の使者の資格をあたえられたもの)の移動の際、荷物の運搬も朝鮮持ちのため、行路の庶民は人力を提供しなければならず、負担は大きかった。
交易は三浦や三浦と漢城の中間地帯、あるいは漢城でおこなわれた。漢城の倭館は接待所であるだけでなく商館としても機能したのであるから、行路の庶民が運ぶものは進上品だけでなく商品も含まれていた。
 
1439年の4月、礼曹判書の閔義生が「各種の倭使の往来が頻繁で今年などは倭館に来たものは年間1300人を超え、警護や世話をするのももはや限界です」と言っている(資料12〈1439_4_17〉)
江戸時代の通信使の役割は外交儀礼に限定され、15年に一回程度、4,5百人が日本に上陸し、江戸まで往来する者はそのうち半数程度であった。
これと比べると、毎年1000人以上の倭客がかかわったこの時期の倭館往来は圧倒的に濃密であり実質的なものがあった。
生活慣習の違いや文化的な摩擦もあったであろうし、朝鮮政府の経済的、心理的負担の大きさは察するにあまりあるが、逆にいえば、そのような負担にたえながら推進するだけのメリットもまたあったわけである。
    資料121439_4_17
 
 
 

 

 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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