2019年9月22日日曜日

古谷有希子 の主張は不十分である__その1

あちこちのサイトを巡っていたら、古谷有希子 という人の「日韓関係:互いを敵視してしまうのはなぜなのか」という文章が目にとまった。結論的には、彼女は日韓には二つの違いがあるという。

①歴史を記憶する韓国人と、歴史を忘れる日本人。
②民衆の力で社会変革をさせることに意義を見出す韓国人と、法的手続きによって問題解決を図ることに意義を見出す日本人。

ということを主張している。
このような主張は彼女に特有のものではない。同様のものを、何人かの記述の中で見た記憶がある。ある程度、韓国人のうちに、そして韓国通と自覚している日本人の一部に存在しているものなのだろう。
ところで、このような整理は妥当であろうか、本当に客観的といえるのであろうか。
このような記述は印象としては、韓国人の方が、真摯に歴史に向き合い、歴史的な知識を持ち、未来思考で進歩的な漢字を与えるかもしれない。
しかし、このような整理には問題が大きいと思う。はっきりいえば、ほぼ間違いである。このことを韓国人にもわかるように、包括的に証明するべきなのだが、どのような論理的空間を設営するべきかという課題もあり、私には時間が必要である。

とりあえず、関連することを述べる。
A 韓国人は専門的な歴史の勉強を厭う。大学受験の際の社会の受験科目で自国史を選択するものは1割もいなかった。彼らは歴史の知識が乏しい。「金春秋」というのは中国の歴史書にも日本の歴史書にも出てくる名前で、統一新羅の初代・武烈王の本名であり、慶州金氏の始祖なのだが、韓国人は「金春秋」をハングルで記しても、それが人の名であることさえわからない。
韓国の歴史教科書には漢字の固有名が大量に出てくるが、歴史を勉強するためにはまず、漢字を勉強しなければならない。そして固有名詞にはレアな漢字が頻出するから、学生の負担が大きいのだ。
では韓国人はどこから歴史的知見を得るのかといえばそれはドラマであり、雑誌の記事であり、コメンテーターの発言である。そのときどきの、癖のある、フィクションがないまぜになった言説を鵜呑みにするわけで、主体的に実証的に裏をとることなどできないのだ。
その歴史教科書の中で日本に関する記述といえば、大きなウェイトを占めるのは秀吉軍の朝鮮侵攻である。10年間ほどの出来事が近代以前の日本関連記事の半分を占める。
元寇であるとか、朝鮮の太宗・世宗父子の熱心な対日本外交や、そのさなかにおこった応永の外寇などは、ほんの申し訳程度の記述がなされる程度か、あるいは無かったりする。
歴史を選別し、自国にとって有効であると判断したものを肥大化させている。その目的は明確であって、歴史の基調を、善と悪との物語として理解し、自国の倫理的優越性を植え付けることにあるといっても過言ではない。この他、文化的優越の歴史も必要とされているようで、後世の歴史的事象と繋がらない背伸びした説明が多い。
つまり、自民族の倫理的・文化的優越性を信じ込むための道具として「歴史」は扱われている。他方、かつて日本にもそのような偏りはあったが、現在では比較的薄らいだということだ。しかし歴史好きの日本人は相当多い。
「歴史を記憶する韓国人と、歴史を忘れる日本人」という整理は分野を限定し、「歴史とは被害者と加害者の歴史である」という神話の延長上の主張にすぎない

0 件のコメント:

コメントを投稿