2019年9月22日日曜日

古谷有希子 の主張は不十分である__その5


だが、そうした意識の薄かった若年層にまで歴史修正主義的な思考が広がり、嫌韓が蔓延している背景には、「日本などどうでもいいと思っている韓国」「理不尽に怒っている韓国人」に対する憤りと、いつまでも怒っている韓国に付き合うことに対する疲労感がある。


民主化運動の成功が韓国人の日本観を歪めている

韓国は民主化運動をはじめ、民衆の力で政治を、社会を、変えてきた

自らも民衆運動に参画し、進歩派として人権問題や労働問題で戦ってきた経験のある文大統領の就任自体、国民の力で朴政権に対して「正義」を追求した結果である。

民衆が正義を追求し、社会運動を通じて社会や政治を変えてきた韓国では、人権問題や植民地問題を正面から受け止め、変革させようとしない日本は、停滞し、遅れているように映る。 冷静に、歴史的知見を加えれば、朝鮮時代の党派抗争の遺伝子をもった種子が発芽した、と考える方が適切だろう。
しかし、そうした韓国人の考え方、態度自体が日本では理不尽かつ感情的に映る。
なぜなら、日本人の多くは民衆の力で社会を変えることを是とは考えていないし、その必要性も感じていないからだ。

日本では、全共闘闘争の社会的記憶が、連合赤軍などの内ゲバ・(総括という名の)リンチ殺人と結合しており、民衆蜂起や「革命」なるものへの期待、憧憬が決定的に損なわれてしまっている。その過程を古谷は無視している。

日本には民主化運動の成功経験が無いが、そもそも日本で重視されるのは、民衆の力で問題を解決することよりも、適正な法手続きによって改善を図ることである。

民衆の力によって社会を変えるべきだという感覚が薄い日本人には、従来の法的合意を覆すような韓国の態度が全く理解ができない。

「正義」を求めてデモやストを行う韓国民の姿も、日韓両国間の数十年来の法的合意を反故にしてまで、そうした民衆の要求を政治や法に反映させようとする韓国司法や韓国政府の姿も、日本人の目には感情的かつ、暴力的にさえ映るのである。

日本人の多くが、個人の権利より義務を優先し、民衆による社会変革よりも法に従うことを優先する。

そして、司法が「国家統治の基本に関する高度な政治性」に関する判断を避けることが恒常化している。

だから、多くの日本人にとっては、民衆が社会変革を求めて運動を起こすことも理解しがたいし、そうした社会の変革を受けて、韓国政府・司法が対日関係で法解釈を変えていくことも理解しがたい。

こうした日本人の考え方を「三権分立を理解していない」「個人の権利というものを理解していない」「民主主義を理解してない」「民主社会が発展していない」と批判することは簡単だが、日本人と韓国人では社会との距離の取り方がそもそも異なるのだと考えて、妥協点を見つけるほうが生産的であろう。
 

隣人を愛することは難しい

ここまで見てきたように、日韓両国にはどうにも解決しがたい二つの違いがある。
まず、歴史を記憶する韓国人と、歴史を忘れる日本人。

そして、民衆の力で社会変革をさせることに意義を見出す韓国人と、法的手続きによって問題解決を図ることに意義を見出す日本人。
この二つの相違点について日韓両国の民衆が妥協することができなければ、日韓関係が根本的に改善することは無いだろう。

現実に韓国で起こっていることは、党派的な権力闘争であり、朝鮮時代に繰り返えされた「換局」(権力の行ったり来たり)である。検察権力をどちらが握るか、などという点はよく似ている。韓国人はこれを美化して「民衆の力で社会変革」と自己洗脳しているのだ。

問題の根源的な解決のためには、現代韓国の文化・文明の出生の秘密を知ることが必要であろう。
だが、日本に住む韓国人、韓国に住む日本人はこれをやってのけている。

理不尽だと思うこと、おかしいと思うことがあれば「正義」を求めて妥協することなく相手を変えようとするのでも、「自分は知らない」と相手の主張を無視するのでもなく、自分たちが妥協できるギリギリのところで相手の主張を理解し、譲歩しあう。

隣人というのは、どんなに嫌いな相手であっても関わらずに生きていくことはできないが、隣に住んでいるからこそ、ちょっとした騒音やごみの捨て方などで、イライラしてしまう。

だが、ちょっとした騒音やごみの捨て方がおかしいことは、隣人と喧嘩をして完全に決裂し、その家での生活そのものをさらに不便かつ不快にさせるほどの価値があるものなのかどうか、日本人も韓国人もよく考えてみるべきだろう。

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